日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。
第24話:民部省兼大蔵省へ出仕する

新政府の人材登用システム

明治政府が討伐した対象である旧幕府の家臣たちから有能な者を探し出し、役人として採用する。こういうと、「へぇ、そんなシステムがあったんだ」と思うむきもあるかもしれないので、新政府の差人材登用システムについて簡単に説明しておこう。

新政府は慶応3年(1867)12月9日、王政復古を宣言して摂政・関白・征夷大将軍などの官職を廃し、総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職を置くことにした。
総裁は、有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王。

議定は、仁和寺宮嘉彰親王(じんなじのみや よしあき)、山階宮晃(やましなのみや あきら)親王、中山忠能(ただやす)(前大納言)、正親町(おおぎまち)三条実愛(さねなる)(同)、中御門(なかみかど)経之(つねゆき/中納言)、徳川慶勝(前尾張名古屋藩主)、松平慶永(前越前福井藩主)、浅野茂勲(もちこと/のちの長勲、芸州広島藩世子〈せいし〉)、山内豊信(とよしげ/前土佐藩主)、島津茂久(もちひさ/のちの忠義、薩摩藩主)。

参与は、大原重徳(しげとみ)(元右近衛(うこんえ)権中将(ごんのちゅうじょう)、万里小路(までのこうじ)博房(元参議)、長谷信篤(のぶあつ/元左議奏)、岩倉具視(ともみ/元左近衛権中将)、橋本実梁(さねやな/元左中将)、その他。

今、参与として紹介した五人の元尊攘派公卿の名の最後に「その他」と付したのは、尾張名古屋藩、越前福井藩、芸州広島藩、土佐藩、薩摩藩から3人ずつ藩士が選ばれ、やはり参与に登用されたためである。

すべての藩士はその藩の藩主にとっては直臣(じきしん)だが、朝廷とは主従関係を結んでいない。というのに、右の五藩から計15人が参与に選ばれたのだから、これを明治新政府の人材登用の初めと見たい。土佐の後藤象二郎や福岡藤次(のち孝弟/たかちか)、薩摩の西郷吉之助(のち隆盛)や大久保一蔵(のち利通)らは、すべてこのとき参与に指名された者たちである。参与にのちに追加指名された者たちもおり、福井藩士・三岡八郎(のちの由利公正)、右近衛権中将西園寺公望(きんもち/のちの首相)らは追加組であった。

また、慶応4年1月17日には諸藩を大中小の三者にわかち、秀才の藩士たちを貢子(こうし)として差し出させて議事にあずからせることにした。その定員は、大藩(40万石以上)が3人、中藩(10万~39万石)が2人、小藩(1万~9万石)が1人。選任は藩主にゆだねられた。
ただし、この条件では在野の大器をカバーできないし、諸般にも定員以外に才人のいる可能性を否定できない。そこで同年2月3日には早くも規定を改め、「徴士(ちょうし)貢士の制」を定めた。

徴士には諸藩士ないし草莽(そうもう/在野)の士から才識ある者を抜擢し、これを参与職や各局の判事等とするが在職4年にして退職させる。これは賢才に仕事をゆずるためだが、大器にして退職させ難い者は任期を四年延長する。貢士は奉承より50日以内に上京するものとし、議事所(貢士対策所)において議事にあずからせることにした。

同年5月28日、新政府が貢士をもって公務人とし、諸般が朝命を奉じる一方、それぞれの持論を伝えるためパイプ役としたのは国と藩との一体感を高める狙いであり、これは8月20日に「公議員」と改称される(『明治天皇紀』第一)。しかし、渋沢栄一が新政府に呼ばれたのは、藩主徳川家達がかれを徴士や貢士のひとりとして推挙したためではなかった。かれは11月月4日に太政官(だじょうかん)に出頭すると、民部省の租税正(そぜいのしょう/租税司のトップ)に任じられた。

大隈重信から新国家建設への熱意を聞かされる

この時代の民部省は戸籍、租税、鉱山、水利、養老などに関する事務をおこなう中央官庁で、一部大蔵省の職務と類似性をもつため、民部卿と大蔵卿とは伊達宗城(むねなり/宇和島藩主、議定)が兼務していた。そのナンバー2、民部大輔(たゆう)兼大蔵大輔は大隈重信(佐賀藩徴士・参与)、ナンバー3の民部少輔(しょうゆう)兼大蔵少輔は伊藤博文(長州藩徴士・参与)であった。

伊達宗城は「幕末四賢侯」のひとりにかぞえられる聡明な人物(他の三人は越前福井藩主松平慶永〈春嶽〉、土佐藩主山内豊信〈容堂〉、薩摩藩主島津斉彬〈なりあきら〉)。外務掛、外国事務総督など新政府において諸外国との外交事務を担当することが多かったため、ヨーロッパ大旅行の清算もきちんとおわし、静岡藩でも商法会所改め常平倉の運営を成功させた栄一の理財家としての才能に早く気付いたようである。

とはいえ、栄一としては早く静岡へもどり、常平倉の仕事をつづけたくて仕方がない。11月18日までに2回大隈邸を訪ねて率直に思いを伝えたところ、大隈はかつての岡部藩の代官のように無礼な態度はとらず、ありていに答えてくれた。以下は『雨夜譚』に記された大隈のことばだが、大隈がすでに民部省は大蔵省と合併したかのように語っている点には注意されたい(実際に合併したのは明治4年)。

「この維新の世となって真成の国家を創立するには、当世用人の人々が非常の奪励努力を以てまず第一に理財なり法律なり、軍務・教育なり、その他工業・商業とかまたは拓地・殖民とか、また大蔵省の事務については、貨幣の制度、租税の改正、公債の方法、合本法(がっぽんほう)の組織、駅逓(えきてい/郵便)の事、度量の制など、その要務はなかなか枚挙する遑(いとま)もないくらいである。而(しこう)して今日この省務に従事して居る人々は足下(そっか)も僕も皆同一で、決してこの新事務について学問も経験もあるべきはずはないから、勉めて協力同心して前後の成功を期するほかはない。ゆえに今足下のいう駿河(静岡)に起こした新事業というも、これを日本全体の経済から見る日には誠に瑣細(ささい)の事だから、その小を棄てて大なる方に力を尽すのが日本の人民たる一分からいっても相当する訳であろう」

大隈はこのようにして栄一に出仕するよう説得したわけだが、筆者が興味深く感じたのは、ここで大隈が「一分」ということばを用いているところだ。これはイチブやイップンではなく「イチブン」と読み、「一身の面目」という意味。『日本国語大辞典』第一版には次のような用例で紹介されている。

・「家一間(軒)を両方へ質に入れたが顕(あらわれ)ては、この岐阜屋道順が一ぶんがすたるとて、ほろほろ泣(ない)てござるげな」(浄瑠璃・大経師昔暦)

・「女の寝間といひ金銀の有所(ありどところ)をしりて夜中の忍び入(いり)、主人は格別この家の手代ども一分立難(たちがた)し」(浮世草子・本朝桜陰比事)

・「あのやうな見苦しい姿(なり)な人をわしにあはし、女郎の一分を棄てさせふといふ事か」(歌舞伎・傾城千生大念仏)

要するに、かつて日本人のは、借金で首がまわらなくなった者から商家住みこみの手代(てだい)、あるいは遊女たちまでが、それぞれの「一分」を守り抜くことを人生の大事と信じて疑わなかった。大隈は自分にも栄一にもこの価値観が共通していることを前提に、われわれは真の国家を建設するために「大事の前に小事なし」(大事の最中に小事をかえりみる余裕はない)との気迫で「新事務」にあたるべきだ、それが日本人の一分ではないか、と正論をもって説いたのである。

渋沢栄一が優れた才能を発揮しつづけられた本当の理由

ここでおさらいしておくと、そもそも渋沢栄一が農民であることをやめて尊攘激派たらんとしたのは、次のような論理で新しい国家について考えたためであった。

「大騒動を起したら、その騒動によって幕府が斃(たお)れて国家が混乱する、国家が混乱すれば忠臣も顕われ、英雄も出てこれを治める」(『雨夜譚』)

長州藩の馬関攘夷戦、薩摩藩の薩英戦争など実際の攘夷実践は成功に至らなかったが、全体として幕末は栄一の予測した通りとなって幕府は瓦解し、ついに新政府が成立した。ならば日本人は英雄ならずとも新国家の建設に力を尽くすべきだ、とする議論は栄一の心に響くものがあった。「しからば」と栄一は答えた。「駿河へ帰る意念を止めて朝廷に微力を尽くしましょう」(同)

こうして栄一は、官途に就くことになったのであった。

ここまで書いてきて筆者が感じるのは、渋沢栄一という人間の運の良さである。尊攘激派として行動を起こす前にその限界を悟り、追われる身となった可能性を考えて京へ流れようとしたときには、一橋家の用人平岡円四郎が栄一と渋沢成一郎を一橋家の家臣として採用してくれた。

同家の当主慶喜は栄一の理財家としての才能を高く評価してくれたばかりか、慶喜が将軍、栄一が幕臣となってからは民部公子徳川昭武をパリ万博に派遣するにあたってかれに同行を命じてくれた。ヨーロッパからの帰国直後、昭武が水戸藩を相続して栄一を藩士として採用しようとしたときにも、引退し、前将軍となって駿府に来ていた慶喜がその身を案じ、ずっと静岡藩にいられるよう水面下でとりはからってくれた。

そして同藩のうちで商法会所改め常平倉の経営に乗り出している間に太政官に名を知られ、大隈重信の新国家建設の熱意に打たれて民部省出仕を決断する――。

ただし、これらの人生のいくつかの曲がり角でつねに栄一に救いの手が差しのべられたように見えるのは、かれが単に強運の持ち主だったからではない。平岡円四郎が栄一を攘夷思想にかぶれていると知りながら一橋家の家臣として採用したのは、交際する間にかれの有能さに気づいていたためである。慶喜が栄一を高く評価したのは理財家としての才能と私心なき性格を気に入ったためであり、伊達宗城らが栄一の存在に気づいたのはフランスとの事務折衝の巧みさゆえのこと。

「天道に私(わたくし)なし」(天道は公平でえこひいきはない)

とは『礼記』に見える表現だが、栄一はいつどのような職務を与えられても創意工夫を怠らず、結果として主家を富ますよう努めつづけたことにより、これらの幸運を引き寄せたのである。
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