将軍の弟・徳川昭武がフランスで開催される「パリ万博」に貴賓として招かれ、渋沢栄一は洋行の供に選ばれる。船上生活で異文化に溶けこむ柔軟さや好奇心の強さを発揮した渋沢栄一は、途中、寄港した中国(清国)で、宗主国たるイギリスの繁栄を目の当たりにする。ついで寄港したベトナムは、フランス領となりながら、戦火の傷がいえぬ貧しい植民地と化していた。
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。
第16話:西欧文化の刺激

フランス領ベトナムの貧困に、亡国の淵を見る

香港におけるイギリスの強盛を知ったのにつづき、渋沢栄一は、造幣局、新聞局、講堂、病院、公園、牢獄などを見学。牢獄では囚人たちの職業に従って作業させていること、前非を悔いて善におもむかせるべく説法がおこなわれていることも知った。

横浜で用意してきた銀貨(メキシコドル)は、この地で英国通貨のポンドに両替しておくと以降の航海中に便利だということを教えられたのも香港でのこと。栄一は初めて、ヨーロッパではドルよりもポンドの方が強いことに気づかされたのである。

26日には、「アルヘー号」からその倍の大きさの郵船「アンペラトリス号」に乗り換え、3月1日、フランス領ベトナムのサイゴンに到着。栄一はベトナムがフランス植民地になった原因と現状を下のように記述した。

「仏国、郵便(制度)を開くための計画する所あらんとて教師を遣し、この地の形を測らしめたるを、土人(ベトナム人)憤怒し、その人を殺害せしよりついに戦争となり、仏兵大いに土兵を攻撃し、内地に深入す。これによりて和議を講じ地を割(さ)きて罪を謝す。爾来(じらい)仏国所領となりし由。仏国は鎮府を置き、兵およそ一万を駐留させて不虞(ふご)にそなえ、盛んに開拓建業の目的をなす。されども兵火の後、いまだ十年に充(み)たざれば土地荒廃し、炊事の煙が立ち上ることも稀にて富み栄えるに至らず。かつ土民反覆測り難く、ややもすれば協力して来襲するあり。【略】すでに製鉄所、学校、病院、造船所等を設け、東洋における一大根拠地たらしめようとしても、一年の徴税額はわずかに三百万フラン。年々入費多く得失償いがたきゆえ、本国でも議論はまちまちなりという」

ベトナムは、日本の尊攘激派がヒュースケンやリチャードソンを斬ったのとおなじ「攘夷熱」でフランス人教師を殺害したころから亡国の道をたどったのである。

攘夷論とは国が亡ぼす思想でもあること、イギリス領香港が繁栄しているのに対し、フランス領ベトナムはその攘夷思想のゆえになおも貧国の淵にあることなどにつき、『航西日記』にはなぜか所感が述べられていない。栄一はかつて尊攘激派に属した自分をかえりみて、忸怩(じくじ)たるものがあったのかもしれない。

経営者の本質は「公益」を重んじる志にあり、と知る

3月3日に昼にサイゴンを発った渋沢栄一たちは、5日の午後5時にシンガポール着。6日の同時刻にインド洋にむかい、9日から熱帯のこととて日が長いので「洋学」を勉強しはじめた。これはおそらくフランス語の学習であろう。

7日にはイギリス領のセイロンに寄港、カレーを食べ、仏教寺院で巨大な釈迦の涅槃像(ねはんぞう)を見学してから8日午前8時にアラビア方面へむかって出発。暑さにくらくらしながらも海中にいる鮫や「海馬(タツノオトシゴ)」を眺め、21日午前6時にアラビア半島南端にあるイギリス領アデンに着いた。アデン湾に面したこの城砦都市から紅海を北上してゆけばスエズ港に達し、そこからさらに陸路を150~60里ゆけば地中海がひろがる。

従来、ヨーロッパとアジアを結ぶ航路はアフリカ南端の「喜望峰まわり」とされていたが、スエズ――地中海の間を掘削してスエズ運河を開設すれば、地中海経由でインド洋へむかうことができる。その掘削工事ははじまって間もないので、栄一たちは26日昼にスエズに着くと、地中海側の港・アレクサンドリア行の汽車に乗りこんだ。

栄一は晩年に南満州鉄道の設立委員も歴任することになるので、このときから鉄道に興味をもっていたのかというと、さにあらず。栄一の関心はもっぱらスエズ運河掘削計画にむけられていたようで、次のように記録されている。

「西洋の軍艦、商船等すべて東洋に来舶するは喜望峰の迂路(うろ)を取らざるを得ず、その経費大にして運漕もっとも不便なりとて、一八六五年ごろより仏国会社にてスエズより地中海までの堀割(ほりわり)を企て、しかも広大な土木を起こし、この節、経営最中の由。汽車の左方はるかにタント(テント)など多く張り並べ、土畚(つちもっこ)を運ぶ人夫等の行き交うを見る。この工事の竣工は三、四年後の目途(もくと)にして、成功ののちは東洋、西洋直行の涛路(なみじ)を開き、ヨーロッパ人が東洋の声を快く聞きつつ商品・貨物を運輸するに足る。その便利、昔日に幾倍するかを知らずといえり。すべてヨーロッパ人の事を興すや独り一身一箇のためにせず・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多くは全国の宏大な益を謀・・・・・・・・・・・・(はか)その規模の遠大にして目途の宏壮なること猶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(なお)感ずべし・・・・」(傍点筆者)

かつて栄一少年が藍を買いつけ、藍玉を売ったのは、父を当主とする渋沢家のためであった。播州木綿を大坂で売るために藩札を3万両分も発行して成功したのは、自分を家臣に採用してくれた一橋家を富ませるためであった。これは、家族や主家のための行動だから公益をめざしたことではない。しょせんは「一身一箇のため」である。

対して、香港の「英華書院」その他で中国歴代王朝についての史料を蒐集し、文明の精神まで研究していたイギリス人たちは、無私の心をもって学問の世界に生きていた。これは「一身一箇のため」ではなく、知り得たところをして人類の知的財産とする覚悟でなければ長くつづけられるものではない。スエズ運河の開削にせよ、これが成功すれば億万長者になれるといった欲望ではなく、ヨーロッパとアジアの諸国の「宏大な益を謀る」遠大な目的に裏打ちされた計画だからこそ、多大な支持が集まったのである。

栄一がこのような志に裏打ちされたスエズ運河開削計画を知ったことは、のちにかれが公益を重んじ、私利私欲を満たせばそれでよしとする経営者と一線を画する人間に育っていったことを思うと、一種運命的な出会いであったようですらある。

栄一にとってパリをめざす旅はいつか様相を改め、アジア諸国の現状とその要地を植民地として経営するヨーロッパ諸国の統治法とを観察、分析し、<幕府以後の日本>建設のヒントを得るための研究旅行の色合いを帯びつつあった。

いよいよフランスに安着し熱烈歓迎を受ける

途中、エジプトのカイロに立ち寄った一行は砂漠とナイル河は眺めたものの、着いたのが夜中だったためピラミッドは見物できなかった。

27日午前10時、アレクサンドリア着。28日早朝、「サイド」と呼ばれるインド洋郵船より小型の船に乗り、31日午後6時に地中海のほぼ中央にあるイタリア領サルジニア島に到着。2日午前9時には島を去り、ナポレオンの出身地・コルシカ島との間を通って3日午前9時半にマルセイユ港に入った。ようやく一行はフランスの土を踏んだのであり、これは横浜を出てから47日目のことであった。

この国際港では、入船が電信で役所に伝えられると、その着船を待って鎮台が祝砲を撃つことになっている。その祝砲が放たれるやほどなく鎮台の司令がバッテーラに乗って出迎えにあらわれ、その案内で上陸した一行を馬車に乗せたばかりか、騎兵一小隊に前後を守らせてグランド・ホテル・ド・マルセイユに送り届けくれた。

その後は鎮台司令、海陸軍総督、市長らが礼服を着用して代わる代わる来訪。安着を祝ってくれたので、こちらからも鎮台と陸軍総督(公館か)を訪問して返礼とした。すると先方は、午後8時から劇場へ招待してくれた。これらマルセイユ市の下にも置かない歓迎ぶりは、一行の旅の成功を予感させるものであった。
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