★前回までのあらすじ
「過労」で一度は倒れた春代も、短期入院のみで現場に復帰。
しかし、更なる現場からの要望や自己啓発に追われる日々を過ごす日々の中で・・・。

このコラムは、人事部で働く人々にインタビューし、メンタルヘルス対策にかける思いを中心に、その人生の一端を「物語」仕立てにしたものです。(※文中の名称はすべて仮名です)
~人事課長・春代の物語「社員全員を船に乗せ」第5話~

試験のさなかに

その日、春代は「ビジネス実務法務検定(R)」を受検していた。ビジネスに必要な法律の知識を幅広くバランス良く学べると思い、朝の通勤時間や夜の時間を使って、コツコツ勉強してきた。合格できるだけの知識は身についている自信があったし、特段不安を感じていたわけでも、緊張していたわけでもなかった。

順調に問題を解き進めていたそのさなか、頭の中が突然真っ白になった。まるで暗闇から急にまぶしい太陽のもとに引きずり出されたように、脳の中でハレーションが起きた。弾けるようなその感覚のあとも、霧がかかったように上手くものが考えられない。
しばらくすると、何事も起きていないかのように、自分の手がスラスラと問題を解いていくのを、自分の身体の外から見ているような感覚に陥った。確かに自分は試験を受けているのだが、あたかも幽体離脱をしているかのように、試験を受けている自分を外から見ていた。本当の自分は身体の外に追い出され、別の何かが自分の身体を操っているように感じる。

チャイムが鳴った。周囲が一斉に動き出し、試験官が回答用紙を回収していく。その試験官も、ざわめいている周囲の人々も、人形がギクシャクと下手な演技をしているようだ。まったく奇妙な世界に突然放り込まれたようだった。春代の回答用紙をマネキンのような試験官が手に取った。春代はビッシリと全問回答してある自分の回答用紙を、不思議な思いで見送った。
奇妙な感覚に戸惑いながらも、春代は自分が異常な状態に陥っていることを認識していた。だから、迷うことなく、過労で倒れたときに診てもらった医師のところへその足で向かったのだった。老医師は白い眉を指でなでつつ、ひとしきり春代の訴えを聞いてから、「この間の血液検査の結果も出ているんだけどね、肝臓の値もね、あまり良くないし。ちょっとね、しばらく入院して休もうか。今から念のため別の科にも行ってもらうけど、解離症状がね、出ているみたいだね。疲れすぎたのよ、あんた。この間も言ったでしょ、もっと自分を甘やかさなきゃダメだって。でもできないんだよね。だから入院して、これを機にちょっと立ち止まってごらんなさい」と、春代に告げた。
春代は不思議と、この老医師の言葉を、大人しく受け入れる気持ちになっていた。
「別の科」にまわされた春代についた診断は、つらい体験やストレスによるダメージを避けるため、精神が緊急避難的に機能の一部を停止させるという、一種の解離症状、通称「離人症」だった。

暖かい人柄に触れ、見えた希望

入院してしばらくすると、あの奇妙な症状はキレイに消えてしまった。ただ、高熱や頭痛が続いていたので、春代の入院は思いのほか長引いていた。

「お見舞いにイチゴもらったのよ。春代ちゃん、食べて。私は食べられないからさぁ。まったく、どこの世界に糖尿病患者に果物の差し入れする見舞客がいるのよねぇ」
ベッドの空きの都合で春代は眼科近くの病棟におり、同室にいたのが、「おカルさん」と呼ばれているこのお婆ちゃんだった。おカルさんは、糖尿病で入院治療している。視力障害もあり大変なのだが、いつもニコニコと春代に話しかけてくる。春代も調子が良いときにおカルさんとおしゃべりをするのが、味気ない入院生活の楽しみになっていた。
「春代ちゃん、今は体もしんどいだろうけど元気出すんだよ。あんたは治る日を目指しながら、ここでの毎日を数えることができる。治ることを考えながら治療できるのは幸せなことだよ」
おカルさんは、名前の通りの軽い、明るい口調でいつも春代にそう言うのだった。

春代はおカルさんの温かで軽やかな人柄に魅かれ、いつのまにか、祖母に甘えるように、会社での悩みや愚痴をおカルさんに話すようになっていた。
「春代ちゃん。社員さんたちをとにかく健康にしてごらん。人間ね、生きてさえいれば、苦しくても必ず希望があるもんだ。今の春代ちゃんに先があるように。心と体が元気なら、人はなんだってできる。自然とやる気が出てくるんだよ。ましてや、立派な会社の社員さんたちだ。元気さえあれば、ほっといたって大丈夫だよ。色々と難しく考えず、とにかく、社員さんたちの心と体を健康にするということだけを、突きつめていってごらんよ。春代ちゃんならできるよ。春代ちゃんはきちんと苦しんだ人だから。苦しい社員さんたちの気持ちがわかる」

春代は思わず、おカルさんの柔らかな手を握った。おカルさんは小さな子でもあやすように、手を握り返してくれる。
おカルさんの言葉で、何かが春代の中を突き抜けた。深い海の底から上に向かって必死で泳ぎ、いま、勢いよく水面に顔を出したかのように、目の前に広いひろい青空が現れたような気がしていた。
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