★前回までのあらすじ
ついに完成した、「ありがとうエピソード」。
冊子を目にした一之瀬課長の反応は・・・。

このコラムは、人事部で働く人々にインタビューし、メンタルヘルス対策にかける思いを中心に、その人生の一端を「物語」仕立てにしたものです。(※文中の名称はすべて仮名です)
~人事部3年目・冬美29歳の物語「うつ病の新入社員を救え!」最終話~

「ありがとうエピソード集」を課長に

『組織は、感情の通った、意思のある「人間」で成り立っています。
当社も「人」で成り立っています。
人間はパンのみで生きるにあらず……
人が賃金や物理的な報酬で働くのは「ある程度まで」です。
人間のエネルギーや瞬発力の80%は感情が支えています。
感情が動くとき、人は思いもよらぬ力を発揮します。
そして、人の感情を動かすのは、人です。
「ありがとうございます!」
心の底から思えるその瞬間、
私たちは当社の社員であることの誇りと喜びを
思い出すことができるのです』

冬美が書いた、「ありがとうエピソード集」の前書きである。

冬美は、一之瀬に「ありがとうエピソード集」を差し出した。
一之瀬は、「なんだ?」といぶかしげな顔で受け取る。
「お願いです。まずは読んでください。説明が必要であれば、お声がけください」

冬美はそう言い残して、あえてすぐにその場を立ち去った。
一之瀬がどう出るか、すべては読んでもらってからだ、と思っていた。
メンタルヘルス対策に関する提案と同様、
「命令されてもいない、余計ことをするな!」と握りつぶされておしまいかもしれない。
しかし冬美は、怖れよりも不安よりも、祈るような気持ちでいた。冬美は今度こそ、本気で一之瀬に歩み寄りたいのだった。その気持ちが一之瀬に通じることを、ただ祈っていた。

忙しくなるが、覚悟はいいか?

だが、それから3日たっても、一之瀬から声をかけられることはなかった。いつ声がかかるかと気になって気になって、仕事をしながらも常に一之瀬の動向を窺っていた。が、一之瀬は珍しくなんだかバタバタして、あまりデスクにいないのだった。

(忙しくて、忘れちゃっているのかな……)
何度目になるかしれない溜息を、冬美はそっともらした。
そのとき、「日野原さーん!」と呼ばれ、思わず勢いよく顔を上げた。
声の主は、期待していた人物ではなく、看護師の稲田だった。

稲田は冬美のところまで来ると、嬉しそうな顔で言った。
「産業医の先生の件、あたりつけたわよ。若いけど、メンタルヘルスのアセスメントの腕はいいって評判の先生だから期待できるわね。
大崎部長と一之瀬課長と日野原さんに、一回先生に会ってほしいから日程調整よろしくね」

えっ、なんのことですか・・・と聞き返す間もなく、ルルルと内線が鳴った。
「あ、日野原さん?懲りないよねぇ、君も。
まぁいいや。付き合うから、後で都合のいい日程メールして。じゃ」
一方的に用件を言ってガチャリ!と電話を切ったのは、ベートーヴェン頭のシステム2課長だった。稲田に目を戻すより早く、今度は外線がかかってきた。稲田に目で謝りながら電話を取ると、EAP会社のコンサルタントだった。
「日野原さん、お世話になっております。メンタルヘルス研修の件、実施されることになって良かったです。私も集団分析を活かして対策を打つべきだと思っていました。一度お打合せをさせてください。来週あたり、ご都合いかがでしょうか」

冬美の頭の中で「?」が際限なく膨らみかけたそのとき、「日野原!」と呼ぶ声がした。今度こそ、それは3日間ずっと待っていた声だった。

手招きしている一之瀬課長に思考停止状態のまま駆け寄ると、一之瀬はフッと笑った。
まるで共犯者のように親密な表情で。
「日野原、忙しくなるが、覚悟はいいか」
まだわけがわからず、咄嗟に答えられないでいると、一之瀬はまた笑った。
「やりたいんだろ?メンタルヘルス不調に対応できる産業医との契約、集団分析結果をふまえた課題発見と対策立案のワークショップ、全管理職対象のメンタルヘルス研修、あっそうそう、「メンタルヘルスホットライン」の専用回線をひく依頼もしておいたから」
「一之瀬課長……私の提案、あの一瞬しか見ていないのに……覚えていてくれたんですか……」
「まだあったよな。産業医のほかに専門職を入れるかは、稲田さんと相談だな。職場復帰支援プログラムは、産業医が決まってから、よほど腰を据えて作らないと形骸化するぞ」
早口でまくしたてる一之瀬は、冬美が知っている人物とはまるで別人のように溌剌とし、それはきっと、切れ者SEだったときと同じ顔なんだろうと思った。
「課長……ありがとうございます」
冬美がつぶやくと、一之瀬は、「それ、もう言ってもらった」と、「ありがとうエピソード集」を冬美に手渡した。
「これ、きちんと製本して、今年の創立50周年式典で全社員に配ろうな」
思いがけないほど優しい声でそう言われ、冬美はついに涙ぐんだ。
「ありがとうございます……」
もう一度言わずにはいられなかった。

それから、大崎の指示のもと、一之瀬と冬美が実行部隊としてメンタルヘルスケアの「仕組みと体制」を整えていくことになった。
大窪も新しく契約した精神科の産業医と面談し、近日復職することが決まった。相澤や清水は、相変わらずなんやかんやと手を貸してくれ、貴重な現場の情報をもたらしてくれる。集団分析結果をふまえたワークショップを色んな部署で実施することで、本音で語れる社員もまた一気に増えた。と同時に、課題も山積みだ。

季節は春。どこまでも青く透き通る空と、徐々に形を変えながらゆっくり流れる雲に向かって、冬美は大きく伸びをした。

(忙しすぎて、まだ当分、結婚の準備どころじゃなさそう。篤史、怒りそうだな)

篤史の怒った顔を想像して愛しくなる。
伸ばした指の間から陽の光が差し込んでくるのを見ながら、冬美はくすりと笑った。
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