敵を制すること神の如し

天文13(一五四四)年、美濃斎藤氏の家臣竹中重元の子として生まれた竹中重治は、非常に女性的でたおやかな容貌であったようだ。
 「今孔明」と呼ばれた、戦国時代を代表する軍師「竹中半兵衛」である。
 彼は本名「重治」よりも通称「半兵衛」のほうが圧倒的に有名でありその通り名を知っている人は数多い。
 が、彼の生きた道を残した記述は少なく、多分に私的な推察を交えながら、書き進めたく思う。
岡谷繁実(おかやしげさね、館林藩の重臣)が編集した「名将言行録」には、「半兵衛は秀吉をよく助け、もてる力を最大限に発揮し軍略を整え、敵を征圧する智謀はあたかも神のようであった。そのため秀吉は半兵衛を深く信頼し、何事につけても第一に半兵衛に相談し、その意見を求めた(意訳)」とある。
 「秀吉に天下を取らせた男」として、豊臣秀吉の家臣という印象があるが、どうも正確には、信長の家臣のようだ。
 半兵衛は信長が秀吉につけた与力武将である。つまり、半兵衛と秀吉は、立場は秀吉が上であるが、主従関係ではなく、同僚というほうが近い関係であったらしい。
 半兵衛は、戦況分析に長けていた。自身が優れた軍略家でもあった秀吉をはるかにしのぐものであった。
 例えば、秀吉が近江国の横山城において、小谷城の浅井勢と対峙した際のことである。
 数千騎の浅井勢が城を出て南方へ向かったとの知らせを受けた秀吉は、「浅井勢は横山城を挟撃しようとしているに違いない」と判断し、迎撃の命をだそうと考えた。が、浅井勢の動きを観察した半兵衛は、「後背地を占拠し挟撃しようというのは虚策である。実策は、当方を出撃させ、叩き、少しずつ戦力をそぎ落とすことに他ならない。今は場内の守りを固め、逆に相手に攻め寄せさせるのが上策である」と進言し、事実そのとおりになった。
 半兵衛はその優れた戦況分析力から、独断で陣立てを変更することも多くあったようである。
 しかし、中には半兵衛のこの措置を快く思わない者もいる。
 「今回は半兵衛が陣替えを指示してきても従わぬ。すべてを掌握したかのような態度は不快である」と宣言していた武将は、半兵衛が視察に来た際、「顔も向けず目も合わさず」という態度をとった。
 当の半兵衛は一向に意に介さず「お布陣の場所、勇みだったお旗色、見事なもの。秀吉殿も感服なさっています」と、感心したように言う。その言に、思わず顔を向けたその時を逃さず笑みを交えた視線を合わせ、「秀吉殿の仰せでは、足軽の備えなど、もう少し変えたならばさらによくなるであろうとのこと」とさらに言葉を重ねた。
 秀吉の言として意見を出され、視線を無視できない状況に、秀吉の意見ではなく、半兵衛の意見であることはわかっていても「ごもっともな仰せ」と陣替えを承諾せざるを得ない。さらにはその武将の反感を買うのではなく、「さすがに、竹中半兵衛、断ることが出来ぬよう仕掛けてくる」と感服させてしまうのである。

軍師 真の黒子に徹してこそ

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