これまで人事、特に労務管理は重要な仕事ではあるとみんなが知っている一方で、経営視点ではコストセンターであり、優先度の高い仕事とは言えませんでした。そんな中、人事労務の担当者が経営に参画し、組織課題を解決できる手段として、「従業員の健康」を軸に経営戦略する「健康経営」が広がっています。そこで、これから全6回にわたり、その取り組み方を紐解くシリーズ連載「健康経営を始める方法、続ける方法」をお届けします。第1回では、「健康経営」に取り組む意義や注目を集めている背景、そして実際に「健康経営」を始めるうえで重要な、経営者へのアプローチ方法について解説します。
経営者を巻き込む「健康経営」のキッカケ作り

ホワイト企業も「健康経営」に取り組みはじめる本当の理由

「従業員等の健康保持・増進への取り組みは、将来的に企業の収益性等を高める投資である」、これが「健康経営」において基盤となる考え方です。分かりやすく言い換えれば、「従業員の健康管理はコストではなく、広告宣伝費や開発費と同じように事業成長のために必要な投資である」という意味です。

例えば製薬企業の場合だと、新薬の開発に人材・設備・時間を投下することは「将来の企業価値を高めるために必要な投資」だとみなされますよね。人が働く企業(つまりほぼすべての企業)では、これと同様に、「働くひとの健康を守ること」にメリットがあるのです。「健康経営」は、このように定義されています。

しかし、「将来の企業価値を高める」というメリットは、「健康経営」を“はじめた方が良い”理由にはなりますが、「健康経営」を“はじめる必要がある”理由にまではなりません。実際、「健康経営」に継続的に取り組んでいる企業は、「健康経営」をはじめる以前からホワイト企業と評価されていた企業です。では、なぜホワイト企業でも「健康経営」に取り組みはじめる必要があったのでしょうか?

「健康経営」認定企業の一例

健康経営認定企業の一例
産業医かつ経営者である私の考えでは、「企業」と「従業員」との距離が遠くなっている時代だからこそ、たとえホワイト企業であっても、「健康経営」が必要になってきているように思います。人事に関わる方であれば実感しているところですが、従業員は、ひとつの企業に勤続することにこだわらなくなってきました。数年で転職することが当たり前になり、副業・兼業も増えてきました。いわゆる「会社への帰属意識」が低く、「長時間労働やハラスメントは発生していないのに離職が止まらない」と企業・経営者側の問題意識が高まっています。

一方で、従業員側の問題意識も変わってきています。「働いている自分のために、会社は何を返してくれたのかな?」、「自分の想いに対して、どれだけ応えてくれたのか?」と、“見返り”を求めることが増えてきました。ここでいう“見返り”とは、給与待遇や福利厚生といった、全従業員が一律に受け取れるモノではありません。個々人の特性やニーズにマッチした、「私のために会社が応えてくれた」と従業員自身が実感できるコトなのです。企業としては、従業員との距離が遠くなっていることに危機感を持っているものの、従業員それぞれのニーズにあった取り組みは実行できていないのが現状です。そして、この距離は徐々に広がってきており、不可逆の事態です。

そこで、「企業」と「従業員」の距離を近づけていくための解決策として、「健康経営」が有効な手段になりえると着目されています。「健康」というテーマに対しては、誰しもが何かしらの課題を感じているか、あるいはより良くしたいという欲求を持っています。健康にフォーカスした取り組みは、経営視点でのメリットがありながら、従業員視点でも「会社に大切にされていると感じる体験」を最大化できるのです。

経営者を巻き込む、「健康経営」プロジェクト運営のコツ

「健康経営」の必要性に気付いたら、全社を巻き込んで実行するフェーズに入ります。このフェーズでは、「健康経営をはじめよう!」という声をあげはじめるのがトップ(社長・役員)なのか、現場(人事部)なのかによって、社内の巻き込み方が異なってきます。まずは「トップダウンでの巻き込み方」、つぎに「ボトムアップでの巻き込み方」を見ていきましょう。

社長や役員発信で「健康経営」に取り組み始めた場合、すでに経営者のコミットは得られているので、「健康経営」を推進する社内プロジェクトの運営が鍵になります。具体的には、「誰にアプローチして行動変容を起こさせるか?」ということが重要なのですが、「健康経営」においては、部長クラスをどれだけ巻き込めるかがプロジェクト運営のコツです。

「健康経営」の成功事例としてよく話題にあがるのは、「メンバーレベルの現場が自発的に企画して活動している」という事例です。しかし、実際に「健康経営銘柄」や、健康経営優良法人認定の「ホワイト500」を取得している先進企業の取り組みを分析すると、部長クラスが自発的に活動して現場を巻き込んでいく「トップダウン型のプロジェクト運営」ができているのです。

一方で現場、つまり人事部発信で健康経営に取り組み始めた場合、社長を納得させることからスタートします。この場合、社長に対して影響力のある方を「健康経営プロジェクト」の仲間に引き入れることからはじめてください。たとえば、新事業の立ち上げを任されている人や、過去の経営危機を社長と一緒に乗り越えたという人です。ポジションに関係なく、こうした「社長に物言える立場の人」は、どこの会社でも一人はいるものです。

「健康経営」には予算も人員も必要ですし、部署を横断して協力を得る必要がある大きなプロジェクトとなるので、社長が納得しなければ継続することができません。残念ながら、たとえ社長が論理的なビジネスマンであっても、正論をぶつけるだけでは納得感は得られません。「何を言っているのか?」よりも、「誰が言っているのか?」ということの方が影響力を持つためです。社長に交渉できる実績をもつ、アクティブでエネルギッシュな方から、「健康経営がどれだけ事業成長のために必要なのか」をアピールしてもらいます。

「健康経営」による課題解決を示す

ボトムアップ型で経営者を「健康経営」に巻き込む際に、何をどうやって提案すればいいのでしょうか。まずは、経営者が日々頭を抱えている課題は「健康経営」によって解決できる、ということを示します。
「健康経営」を「人的資本への投資」として捉えた場合、以下のような経営課題の解決につながります。

1.企業ブランドの向上により、採用力が向上する
2.社内コミュニケーションが活性化し、離職率が改善する
3.従業員の不調による生産性低下が防止できる
4.投資家・銀行からの評価が高まり、資本政策が安定化する
5.新しい事業や組織の立ち上げ時の労務トラブルを回避できる

「これらの経営課題において、従業員の健康状態が悪いことがハードルになる」ということ、また「健康にフォーカスした取り組みによって、これらを解決できる可能性がある」ということを、経営者に伝えなければなりません。

そして、これらをさらなる説得材料とするには、データと合わせて示す必要があります。自社のデータを収集し、「どこに事業成長の阻害要因があるのか」、「従業員にどの程度、健康障害が発生しているのか」、「顕在化した問題の裏にある潜在的なリスクはどれなのか」などを分析します。上記の経営課題と自社のデータを合わせて解決策を示し、「今回の健康経営プロジェクトは、◯◯という経営課題を□□%ほど改善するために企画しています」というメッセージで提案することで、経営者はようやく、重要な提案であると認識できるのです。

経営者への「健康経営」の提案に必要なデータとは?

それでは、ここでいう「自社のデータ」とは何なのでしょうか。「健康経営」を推進して経営者を説得するために必要な自社データは、3種類あります。
健康経営に使えるデータ
1つめは「人事情報」。

人事のみなさんは、さまざまな切り口で組織を分析しているはずです。たとえば「男女比率」や「年齢分布」。組織内で部署ごとの平均年齢を算出し、年齢分布を作っておかなければ、将来の採用計画はたてられません。他にも「各従業員の雇用形態」や、「障害者雇用や外国人比率」なども重要な人事情報です。
こういった「従業員の属性情報」について、経営者の頭の中には「古いデータが入ったまま」ということが意外とよくあります。創業者である場合や、社歴が長い経営者の場合、従業員の平均年齢の高さや採用の難しさに対する意識が低くなり、実際にそれらを目の当たりにして驚くというケースも少なくありません。そのため、「健康経営」の提案時に最新の人事情報を可視化しておくことは効果的です。

2つめは「法律で定められた健康情報」。

法律上の義務として、人事・労務担当の方は毎年のように触れている情報ではありますが、個人情報保護のために経営者が目にすることは少ないのが健康情報です。
代表的な健康情報は、健康診断やストレスチェックの結果、労働時間、産業医の面談記録、休職者の記録などがあります。これらはすべて法律に基づいて収集しなければなりませんので、すでに手元にある情報です。人事情報と掛け合わせて集計・分析することで、より詳細な組織の健康状態を把握することができます。「人事情報」と「健康情報」を使った組織分析については、次回以降の記事にて解説いたします。

3つめは「従業員のニーズ情報」。

1つめと2つめの情報は、「従業員の過去と現在」を可視化するための情報でした。3つめの情報は「従業員の未来」を可視化するため、従業員のニーズ調査をアンケートなどによって収集します。たとえば、「感染症対策への不安」や「テレワークの希望度」、「退職金制度」や「キャリアアップへの支援」についてなど、健康に関わらず、働くことに関係するあらゆるニーズを収集します。
経営者としては、「採用が難しいエンジニア職のうち、◯割がテレワークの必要性を訴えています」というように、「経営課題」と「従業員ニーズ」をあわせて提案されることで、何らかの施策を検討しやすくなります。
しかし、3つめの「従業員のニーズ情報」はすぐに用意することが難しいので、1つめの「人事情報」と2つめの「健康情報」を経営者への提案に利用することからはじめてみてください。すでに手元にある情報を収集して、分析し、提案する。これが経営者を巻き込んだ「健康経営」のキッカケ作りの王道です。

次回は、「健康経営」のマイルストーンとなる「健康経営優良法人の認定取得対策」を産業医視点でお伝えします。それではまた。

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