"若者はなぜ3年で辞めるのか?" 企業内の年功序列とその根底にある価値観の弊害を滔々と語る2006年出版の同書*は、そのタイトル自体が企業内部の人々の疑問や苦悩を代弁していたからであろうか、当時各所で話題を呼んだ。最近の若者は~という枕詞は、まだ20代の若い身としては哀しい哉、洋の東西を問わず今も昔も健在である。
*「若者はなぜ3年で辞めるのか」 城繁幸 著 光文社新書
"若者はなぜ3年で辞めてはいけないのか?" 同書のタイトルを見かけて、当時ごく一般的な学生であった私の抱いた率直な問いである。個人的な感覚かもしれないが、昨今の若者の多くは終身雇用を(望むか否かに関わらず)もう期待してはいないし、長く一つ所に留まること自体には価値を見出さなくなっているように思う。むしろ、3年に限らずとも、現状に失望しているようであれば、より良い環境を探して躊躇無く飛び込んでいく。

 同年代の友人を見渡しても、入社後3年以内に転職あるいは独立をして、少なくとも今のところはうまくやれている人間が1人や2人ではないのだが、彼らもまた、なぜ3年で辞めるのか?と嘆かれた若者なのかもしれない。企業の採用育成活動は年々その形を変えていることと思うが、その意図と対象である若者の思惑のミスマッチは、果たして消えつつあるのだろうか。

 しばらく話題を新卒学生の就職活動に限定するが、私個人の経験で言えば、企業へのエントリーシートの「将来あなたはどうなっていたいですか?」といった設問は、企業選びの面で大いに役立った。というのは、その設問を課した企業の社員に、同じことを聞いて回ったのである。

 すると、さすがは人生の先輩だという回答もあれば、お茶を濁した反応も少なくはなかった。出会う人との相性や聞き出し方によるところは大きいのだが、選考を受ける学生のお題を、目下彼らのお手本であるところの社員が答えに窮するというのも、おかしな話である。果たしてそのような企業の一員になれたとして、若者が一生懸命探して見つけた自身の将来像は、実現するのだろうか。

 主体性の有無、これが選考の合否を分ける1つのポイントだと感じることは多かった。厳しい環境に置かれた企業を支えるのが、能動的に考え、行動し、その結果として成果を出せる人材であるということは、もはや異論のないところだろう。先のような設問も、具体的な目標を自発的に設定させており、その回答の質は主体性の程度を測る指標となりうる。

 ただ、仕事に主体的な人材は、仕事"選び"にも当然主体的で、若者も例外ではない。企業の側には、人材の主体性を活かす土壌が求められ、3年で辞めようなどと思わせないだけの環境が整っていなければならない。採用のハードルを上げて望み通りの人材を獲得した分、経営のハードルは下がって楽になるのではなく、むしろ上がるのが道理である。

 転職市場が発達し、ただでさえ人材が流出しやすい昨今、その引き留めを図るリテンションの方法は様々であるが、対象が主体的であればあるほど、ダイバーシティ、つまり社員としてのあり方の多様性にも目を向けてみてはいかがだろうか。主体性の発揮は個性の発露に繋がり、それは企業に籍を置く動機の多様化を促進するからだ。近い将来どうありたいかと考えるとき、そのイメージのロールモデルが社内に見つかるかどうかは、身の置き場を選ぶ上で大きな違いとなる。ロールモデルの選択肢は、多ければ多いほど良い。

 日本企業におけるダイバーシティへの問題意識は、その一般的な議論の詳細および具体的な事例や方策の説明は弊社共著の書籍**に譲るが、性別や国籍をその軸とする場合が多い。だが、外的な属性だけでなく、内的な特性への関心は十分だろうか。同書では「オピニオン・ダイバーシティ」と称しているが、個性を具体的に発現させることへの許容度や積極性こそが肝心である。
** 「個を活かすダイバーシティ戦略」 マーサー ジャパン with C-Suite Club 著 ファーストプレス

 例えば、あんな仕事をやらせろとかこんな制度を作れとか、突拍子も無いと感じる意見でも、それを口にした当人にとっては大きな関心事であろう。出る杭にも各々の意志や考えがあるわけで、頭ごなしに打ちつければ失望し、組織を去るかもしれないし、彼もしくは彼女を目指したであろう優秀な後輩をも失いかねない。企業とその事業が適切に運営されることが大前提ではあるが、新しいアイデアがしばしば既存の枠の外から生まれることは歴史が証明済みだ。目の前の一見おかしな若者も、もしかしたらその一例に化ける存在かもしれない。

 "新入社員教育は、新入社員の入社ごとに、古参社員が受けるべきである" 城山三郎氏の著書***の一節だが、本当に新入社員教育を受けるかどうかはさておき、新入社員を受け入れるための真摯な準備を既存社員は怠ってはならない、という意味だと私は理解している。年齢も経験も違うのだから、同じ企業に属するというだけで何もせずに分かり合えると期待するのは、土台無理な話である。
*** 「猛烈社員を排す」 城山三郎 著 文藝春秋

 馬鹿げた提言だと感じられる方も少なからずおられると思うが、こうした姿勢の違いに、私が学生のときに感じた相対する社員の方々への尊敬や失望の念の一因があった気がしてならない。それに、ご自身のそれまでの常識の外にあった歩み寄りが、職場の若者だけに限らず、異質な相手を理解するのに有効であったご経験はないだろうか。

 ダイバーシティ自体は真新しい概念ではないが、英語の必要性と似ていて、日本人にとっては、その重要性を分かってはいても変化を起こしづらい苦手分野のようである。文化的、社会的な要因も大いにあるとは思うが、それはそれとして必要な企業そして個人の努力は果たされなければならない。ちなみに、先に引用した文章は1980年代に書かれたものである。氏の言及が今も示唆に富むものだとしたら、その先見の明が優れているのか、問題の根が深いのか、あるいは・・。

 さて、私の場合はどうかと言うと、就職活動の中で縁あって弊社に拾われ、礼を失しないよう心がけてはいるが、思ったことは率直に言わせてもらえていると感じる。メンバーの経歴や専門性、性格は様々で、ロールモデルの選択には事欠かない。先のことは正直よく分からないが、3年で辞めなければどうなれるのか、当初の問いも氷解するような前向きな展望も持てているので、3年の壁は何とか越えられそうである。

 と、少々手前味噌のきらいはあったが、社内向けにもしっかり点数を稼げた所で、好き勝手なことを書きなぐってきた筆を置かせて頂きたい。社外の先達に対しても、おそらく礼を失してはいないはずだと言い聞かせながら・・。
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