近年、「人的資本経営」への注目度が高まっている。もはや、企業経営における重要な指針に位置付けられているといっても過言ではない。ただ、実践にあたって、全容を理解、整理しなければ、目的と手段が入れ替わる恐れも出てくる。そこで、今回は「人的資本経営」の意味や注目されている背景のほか、日本に根付かせるきっかけとなった「人材版伊藤レポート」の考え方や情報開示の内容ついても解説していきたい。
「人的資本経営」の肝となる人材版伊藤レポートの考え方や情報開示の項目とは? 取り組みの参考になる指標や義務化の背景も解説

「人的資本経営」がなぜ注目されているのか

「人的資本経営」とは、企業を支える人材を“資本”と捉え投資を行うことで、その価値を最大限に引き出し、中長期的な企業価値の向上を目指す経営手法を指す。人材を単なる労働力として捉えるのではなく、投資をすることで価値が上がっていくものと位置づけている。

ちなみに、人的資本について内閣官房では「人材が、教育や研修、日々の業務等を通じて自己の能力や経験、意欲を向上・蓄積することで付加価値創造に資する存在である」と定義付けている。

●「人的資本経営」が注目されている背景

昨今、「人的資本経営」が注目されている背景として、以下の4点を取り上げたい。

・技術革新による人的資本価値の高まり
今世界はAIやロボットが業務を自律的に最適化する第4次産業革命に突入し、多くの技術革新が起きている。この段階になると技術力で他社との差別化を図ることは難しいと言わざるを得ない。ならば、新たなイノベーションを生み出す人的資本で勝負するしかない。また、人もAIにこなせないクリエィティブな仕事をしていかないと取って代わられてしまう。それだけに、従業員一人ひとりが持つ能力を最大限に発揮できるような環境を作り上げていく「人的資本経営」の価値が高まっている。

・人材不足
日本では人手不足が顕著になっている。いかに、克服していくかはいずれの企業にとっても大きな課題と言える。特に優秀な人材を確保することは至難の技となってくるであろう。こうした局面に対応していくためにも、まずは自社の従業員一人ひとりの能力やスキルを尊重し、それに応じた活躍の場を提供していくことが重要となっている。

・人材・働き方の多様化
労働力人口の減少が著しい日本では、外国人労働者やシニア世代、非正規などさまざまな人材が登用されつつある。また、コロナ禍によってリモートワークが定着するなど、働き方の多様化も加速している。そのため、もはや従来からの画一的な人材管理ではそぐわなくなってきてしまっている。

・ESG投資への関心
ESGとは、「環境(Environment)」、「社会(Social)」、「ガバナンス(Governance)」の3要素を言う。これらに重きを置いて投資先を選定していくことをESG投資と呼んでいる。近年は、ESG投資に着目する投資家が一段と増えてきている。そのため、企業としてもESGを重視した経営にシフトしつつある。人的資本は、ESGのなかで「社会」や「ガバナンス」に含まれ、企業の成長性を見極める判断ポイントとされている。それだけに、多くの企業が人的資本への投資に力を入れている。

●「人的資本経営」は従来の考え方とどう違うのか

・人材マネジメントの目的が「人的資源・管理」から「人的資本・価値創造」
従来、人材は“資源”の一つと考えられていた。そのため、どのように管理して消費するかに重きが置かれていた。だが「人的資本経営」においては、人材は“資本”であると位置付けている。すなわち、人材に投資することで企業価値の創造を図れると考えている。

・個と組織の関係性が「相互依存」から「個の自律・活性化」
従来までの日本企業は、終身雇用や年功賃金などに象徴される日本的雇用慣行を維持してきた。企業は労働力を欲し、従業員は安定した報酬を欲する。まさに、相互依存の関係が成り立っていたと言える。しかし、こうした形態はもはや今日では通用しなくなってきている。

むしろ、従業員は自律していくことが求められている。企業はその実現に向け、従業員に活躍の機会を提供し、成長を支援していくことが重要となっている。

・雇用コミュニティが「囲い込み型」から「選び、選ばれる関係」
長らく日本では、終身雇用を前提とする「囲い込み型」の雇用コミュニティが形成されてきた。メンバーの入れ替えもほぼないので、コミュニティとしては安定していたかもしれない。だが、現代ではビジネス環境が日々激変している。その流れにキャッチアップしていくためには、多様な人材が不可欠となり、組織と個が相互に選び、選ばれる関係になっていかなければならない。

●「人的資本経営」に関する国内での動き

ここでは、国内における「人的資本経営」に関する動きを整理しておこう。

・「人材版伊藤レポート」の発表
「人的資本経営」が日本で注目されるターニングポイントとなったのが、経済産業省が2020年9月に公表した「人材版伊藤レポート」だ。これは、2020年1月に開催された「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」の最終報告書であり、「人的資本経営」の意義や変革の方向性、人材戦略などが示されている。

2022年5月には「人材版伊藤レポート2.0」も公表。「人材版伊藤レポート」が示した内容をさらに深掘り・高度化したものとなっている。特に「3つの視点・5つの共通要素」という枠組みに基づいて、それぞれの視点や共通要素を人的資本経営で具体化させようとする際に、実行に移すべき取り組みやその取り組みのポイントなどが示されている。

・「人的資本可視化指針」の公表
続く2022年8月には内閣官房が「人的資本可視化指針」を公表した。これは、人的資本に関する情報開示のガイドラインとなる内容を記したものだ。指針の中では、人的資本の可視化の方法として、以下の4つを提示している。

(1)可視化において企業・経営者に期待されること
(2)人的資本への投資と競争力のつながりの明確化(フレームワークを活用した統合的なストーリーの構築)
(3)4つの要素(ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標)に沿った開示(統合的なストーリーの開示内容への落とし込み)
(4)開示事項の類型(2類型)に応じた個別事項の具体的内容の検討

・有価証券報告書における記載事項の改正(人的資本開示の義務化)
さらに、2023年1月に内閣府令が公布され、2023年3月期の有価証券報告書から人的資本に関する戦略や指標などを開示することが義務化された。具体的には、人材育成方針および社内環境整備方針(従業員数・平均年齢・平均勤続年数・平均年間給与)、女性管理職比率・男性育児休業取得率・男女間賃金格差などの項目がある。

そもそも「人的資本経営」にはどのようなメリットがあるのか

次に、「人的資本経営」に取り組むメリットがどこにあるのかを整理してみたい。

●従業員のスキルや人材データなどの可視化

人材への投資を積極的に進めていく際に、重要となるのが従業員のスキルや人材データを見える化することだ。これによって、企業全体でどのような人的資本があるのかが把握できる、何に投資すれば良いかが明確になる。

●生産性の向上

「人的資本経営」では、人材に積極的に投資していくので従業員のスキルアップを図りやすい。それぞれの能力が高まれば、業務の生産性も自ずと向上できる。結果的に企業の利益も拡大させていけるので、その利益をさらに人的資本に投下するという良い循環を実現できる。

●従業員エンゲージメントの向上

人材育成に力を入れることによって、従業員のモチベーションを向上させることができる。人材への投資は企業としての期待の現れであり、従業員もその期待に応えようと考えるからだ。モチベーションが高まれば、従業員エンゲージメントもアップするのは間違いない。企業への帰属意識がより強化され、離職率の低下にもつながると言って良いだろう。

●企業ブランディング

人材投資に意欲的な企業は、人を大切にしているということで社会的な信頼を得やすい。自ずと企業イメージも高まるだけに、優れた人材が集まりやすくなる。結果として、企業競争力が高まることになる。

●投資家からの注目

近年では、投資家も財務情報だけで投資先を判断しているわけではない。非財務情報、その中でも特に人的な情報にも重きを置くようになってきている。なぜなら、人材に積極的に投資をする企業は、中長期的に成長する可能性が高いと判断されているからである。そのため、「人的資本経営」を実践する企業は、投資対象として優れた評価を得ている。

「人的資本経営」を進めるうえで役立つ人材版伊藤レポートの考え方や情報開示すべき項目とは

「人材版伊藤レポート2.0」で特に注目したいのが、「3P・5Fモデル」と呼ばれるフレームワークだ。その内容と情報開示すべき項目について説明したい。

【3P・5Fモデル】

「3P」とは、人材戦略を検討する際の視点(Perspectives)を指す。以下の3つが該当する。

●経営戦略と人材戦略の連動
「人的資本経営」を実現するには、経営戦略と人材戦略が表裏一体である必要がある。あくまでも経営であるだけに、イニシアチブを執るのは経営陣。経営戦略とのつながりを意識し、有益な人事施策をKPIとして策定していかないといけない。

●As is-To beギャップの定量把握
経営戦略と人材戦略の連動を図るためには、現状(As is)と理想(To be)のギャップを定量化・可視化することが欠かせない。どのようなギャップがあるのかを洗い出し、そのギャップを埋めるためにはどんな人材戦略を策定すれば良いか、いかにPDCAサイクルを回していくかを考えていかなければならない。

●企業文化への定着
人材戦略は、単に実行すれば良いというわけではない。最終的には、企業文化として定着して初めて意味がある。そのためにも、企業文化と密接につながる企業理念やパーパス、行動指針も意識しながら、人材戦略を実行していく必要がある。

次に、同じく人材戦略の5つの要素(Factors)=「5F」を取り上げたい。以下の5項目だ。

●動的な人材ポートフォリオ
人材ポートフォリオとは、人材の経験やスキル、在籍した部署・期間などを示したものである。それをリアルタイムに把握できる状態にしたものが、「動的な人材ポートフォリオ」だ。それぞれの経営課題を解決するために必要な経験やスキルを持った人材は誰かを迅速に見出せるので、適切な配置を行うことができる。

●知・経験のダイバーシティ&インクルージョン
近年は、多様な経験やスキル・視点、価値観を持った人材を迎え入れ、経営に活かしていくことが求められている。企業としても多様な人材がお互いを認め合い、それぞれの個性や知見を掛け合わせてイノベーションを起こしていける職場環境を作り上げていかなければいけない。

●リスキル・学び直し
顧客の多様なニーズや価値観に対応していくためには、常に新たな知識やスキルを身に付けていく姿勢が求められる。いわゆる、リスキリングや学び直しだ。「人的資本経営」を進めるためにも、従業員が自らのキャリアを見据え、自律的に知見の再構築ができるよう企業として支援していく必要がある。

●従業員エンゲージメント
従業員一人ひとりが、自らの能力を最大限に発揮していくためには、本人が仕事のやりがいや働きがいを感じ、自主的に業務に取り組んでいける環境を作り上げていかなければいけない。それができていれば、従業員の愛社精神や貢献意欲は自ずと強いものとなる。そのバロメーターとなるのが、従業員エンゲージメントである。

●時間や場所にとらわれない働き方
今や、従業員の働き方に対する考え方や価値観は大きく様変わりしている。また、事業継続の観点からも多様な働き方が求められている。もはや、全員がオフィスに出社しなければいけないと言うスタイルでは立ち行かない。在宅勤務やフレックスタイム制、リモートワークなど、時間や場所に制約を受けずに働ける環境を確保することが重要だ。

【情報開示すべき項目について】

「人的資本経営」は実践とともに、その成果に関する情報を開示していくことがとても重要となる。どんな項目を開示すれば良いのかを解説したい。

まず、国際標準化機構(ISO)では「ISO 30414」(人的資本に関する情報開示のガイドライン)として11領域49もの項目を指標として提示。米国証券取引委員会をはじめ多数の国々で人的資本開示のルールとして位置づけられている。具体的には、以下の11領域だ。

(1)コンプライアンスと倫理
(2)コスト
(3)ダイバーシティ(多様性)
(4)リーダーシップ
(5)企業文化・組織文化
(6)健康・安全
(7)生産性
(8)採用・異動・離職
(9)スキルと能力
(10)後継者の育成
(11)労働力

一方、日本国内では2023年3月期決算から有価証券報告書に以下の項目を情報開示することが義務化された。

(1)人材育成方針や社内環境整備方針
(2)女性管理職比率
(3)男性の育児休業取得率
(4)男女間賃金格差
現代は、すべてがダイナミックに変化しており、革新的なイノベーションを生み出しいかなければ生き残っていけない。そのためにも、自社の人材の価値を最大限に引き出す「人的資本経営」が求められている。内閣官房は「人材版伊藤レポート」と「人的資本可視化指針」を併せた活用を推奨している。本質的な実践に向けて、ぜひ本記事で紹介した両資料の併用によるインプットとアウトプットのサイクルを回してみてはいかがだろうか。
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