1986年、21期末の経営会議でのことでした。首藤社長は「俺は65歳になったから退任だ。南方に行く。後はお前達で決めろ」と、後継者も決めずに席を立って行き、本当にそのまま社長職から退任して仕舞いました。後に残った3人の役員、徳丸、坂田、梅島は、「どうする?」 といった表情で互いに顔を見合わせると、少しの沈黙が流れました。そしてその後、2人の男性役員は、声を揃えて言いました。「ウメさん、社長をやれや、それが良いよ」と。
第13回 社長に任命されて慌てふためく
「冗談じゃない、突然私が社長になるなんて。これまで役員として言いたいことを言っていたのが一番良かった。勘弁してほしい」と言い続けているのに、管理担当の坂田専務はさっさと手続きを進め、書類をつくると「印を押せよ、決まったんだから」と迫ります。

仕方なく押印しながら私は、「ワン・タイム・リリーフよ、一期だけね」などと未練がましく言っておりました。でも仕方がありません。首藤さんには会長になってもらい、部屋も座席もそのままにした状態で、とにかく第22期が始まりました。

社長と言われても、コンサルタント会社の社長とは何をすればいいのか分かりません。会社の目標やビジョンをどう立てるのか? ビジョンとは言わずもがな、When、Where、Howで、何時までに、何処に、どのような組織や風土の会社を作るのかを明確にし、社員に知らせることです。確かにそう教えられました。しかし、私にそれを決める力があるのか…?考えると心細いことこの上ありません。

もう逃げることもできなくなった私は、自分がこれまで何をしてきたか、そしてこれからは何をするのか、冷静に考えてみました。

創業以来、女性社員の能力開発と育成に力を入れてきたことは確かです。日本企業における女性研修への要靖の低さに失望して、1971年には、自ら米国訪問を企画しました。そしてブレイ博士と出会ってアセスメント技法を知ると、その導入にも努力を続けてきました。

毎年2ヵ月間ほど米国に滞在して、この技法への見識を深めていましたし、ブレイ博士とバイアム博士の経営するDDI社と技術提携後は、普及のため、両博士に同行して国内の各都市を巡り歩きました。「HA」と日本流に名付けたこのアセスメント技法の売り込みに、一番心血を注いできたと言っても過言ではありません。1986年に首藤社長が退任され、代わりに私が社長に任命された当時、HAはMSCの押しも押されもせぬ主力商品でした。

社長になってからは、これまで担ってきた仕事は他の方へ託しました。徳丸さんにコンサルタント軍団を率いてもらい、坂田さんに経理総務をお願いし、女性講師グループは、部長として三木尚子さんに見て貰いました。

では、社長として何をやったか、何を考えたか。当時は無我夢中で、明確な記憶は少ないのですが、強い印象として残るのは、いつも社員やお客様、外部の多くの先生方に助けて頂いて、それで何とか社長業を務めてきたのではないか、ということです。リーダーはたとえ私のように不完全であっても、回りの人々の支えがあれば、何とかやれるものと思います。
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