人事・組織の本質は、目先のトレンドだけでなく「歴史の文脈」と「思想の系譜」を辿ることで初めて見えてきます。本連載では、長年人事領域を探求し続ける楠田祐が、人と組織にまつわる文明論的考察を月1回お届けします。

大名行列は、殿様を運ぶ巨大なスキマバイト・プロジェクト?
〜江戸の「非正規」が支えた参勤交代〜
第一章 参勤交代という巨大移動プロジェクト第二章 江戸時代にも「変動費化」があった
第三章 何キロ歩き、どこで交代し、いくら払われたのか
第四章 「スポットワーク」が使われたのはいつからなのか
第五章 募集は「貼り紙」だったのか
第六章 街道そのものが巨大な労働市場だった
第七章 大名行列は「社員旅行」ではなくサプライチェーンだった
第八章 行列には「見せる仕事」があった
第九章 「大名行列の三分の一はアルバイト」は本当か
第十章 「士農工商」だけでは江戸社会は見えない
終章 殿様の後ろには「人材市場」が歩いていた
「今日のひと言」
「下に、下に」
街道の人々が道端にひれ伏し、その間を、槍や挟箱を携えた武士たちが一糸乱れぬ隊列で進んでいく。
私たちは長い間、これこそ大名行列だと思ってきました。
ところが、歴史を少し掘り下げると、最初の「下に、下に」からして話が怪しくなってきます。
この掛け声は、すべての大名が一律に使っていたわけではありません。国立国会図書館のレファレンス事例によれば、徳川御三家・御三卿について「下に、下に」とする資料がある一方、ほかには「脇寄」「脇へ寄れ」「寄れ」「這入れ」などの掛け声も確認されています。場所、時代、行列の主によって異なっていた可能性があるのです[1]。
つまり、私たちの頭の中にある大名行列は、入口からすでに少々「時代劇仕様」なのです。
そして、もっと面白いのは行列を歩いていた人々です。
彼ら全員が、殿様に代々仕えてきた忠臣だったわけではありません。
大名行列には藩士だけでなく、中間、人足、駕籠かき、荷物運搬などを担うさまざまな人々が加わり、そのなかには「通日雇(とおしひやとい)」や「渡り者」と呼ばれる臨時的な労働力も存在しました[2][3]。
幕末の松代藩では、元治元年、1864年の真田幸教(さなだ ゆきのり)の帰城に際し、福嶋屋という請負業者から198人の通日雇を雇い、約363両を支払っています。翌慶応元年、1865年の参府でも128人を雇い、約581両を支払った記録があります[3]。
大名行列は、決して今で言う「正社員だけのプロジェクト」ではなかったのです。
なお、本稿でいう「スキマバイト」「非正規」は、現代の労働法上の雇用区分をそのまま江戸時代へ当てはめたものではありません。
特定の日程と仕事のために、必要な労働力を外部から調達する。
その経済的機能を現代人に分かりやすく説明するための比喩として使います。
第一章 参勤交代という巨大移動プロジェクト
そもそも参勤交代は、とてつもなく大きなロジスティクスでした。寛永12年、1635年の武家諸法度(寛永令)」は、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の時代によって参勤交代が制度化されますが、幕府自身、供の人数が増えすぎることを問題視し、人数を抑えるよう命じていました。
さらに享保6年、1721年には、石高に応じた供人数の基準が示されます。
十万石の場合の目安は、馬上10騎、足軽80人、中間・人足140~150人。二十万石以上では馬上15~20騎、足軽120~130人、中間・人足250~300人とされています[4]。
ここで重要なのは、行列とは「武士がぞろぞろ歩くもの」ではなかったことです。
人間だけではありません。
馬がいる。
駕籠がある。
衣類がある。
武具がある。
食料がある。
茶道具がある。
宿泊がある。
それらを数日、場合によっては十日以上にわたって移動させる。
現代風に言えば、大名行列とは「人事」「物流」「宿泊」「調達」「警備」「儀礼」「広報」が一体となった巨大な移動プロジェクトでした。
しかも毎年、あるいは定期的に発生します。
全部を常用の人員として抱えるには、あまりにも重い。
ここから江戸時代の人々の合理性が顔を出します。
第二章 江戸時代にも「変動費化」があった
現代企業であれば、こう考えるでしょう。「繁忙期だけ必要な仕事を、全員正社員で抱える必要があるのか」
江戸の大名家も、言葉こそ違えど似た問題に直面していました。
大名行列のために必要となる運搬、駕籠、雑役などの人員を恒常的に多数抱えれば、扶持や維持費がかかります。
そこで、必要な労働力の一部を外部から調達する仕組みが発達しました。
江戸には「人宿」と呼ばれる、武家奉公人の斡旋などを担う商人が存在しました。市川寛明氏による米屋田中家の研究からは、人宿商人が武家奉公人、通日雇、運搬労働などに関わっていたことが分かります[5]。
さらに通日雇の世界には、人を紹介するだけでなく、人足をまとめ、道中の仕事そのものを請け負う商人も存在しました。
現代の言葉に翻訳すれば、人材紹介、業務請負、物流会社、短期人材サービスの境界がまだ明確に分かれていないような世界です。
もちろん、江戸時代の人宿や通日雇請負人を、現代の「人材派遣会社」とそのまま同一視するのは正確ではありません。
労働法も雇用契約も社会保障もまったく異なります。
しかし、
「必要な人材を、必要な期間、外部から調達する」
という経済機能に着目すると、驚くほど現代的な姿が見えてきます。
第三章 何キロ歩き、どこで交代し、いくら払われたのか
「日雇」と聞くと、一日だけ働き、その日の夕方に賃金を受け取る姿を想像します。しかし、通日雇の「通し」は、宿場ごとに人足を交代させるのではなく、一定の区間、あるいは長い道中を通して働くことを意味しました。
したがって、通日雇は必ずしも「一日だけの仕事」ではありません。
むしろ数日から十日以上に及ぶ、期間限定のプロジェクトワークでした。
松代藩の場合、江戸と松代の往来では中山道から北国街道方面を経るルートが使われました。
真田宝物館の資料によれば、元治元年、1864年の帰城では福嶋屋から198人の通日雇を雇い、合計約363両を支払っています[3]。
頭数だけで単純に割れば、一人当たり約1.8両分です。
しかし、これは一人ひとりの「給料」ではありません。
勘定書に記録された請負料金であり、業者側の手配、統率、経費なども考慮しなければならないからです。
さらに全員が最初から最後まで同じ区間を歩いたとは限りません。役割や区間に応じて人足を組み合わせる運用が行われていました[3]。
翌慶応元年、1865年の参府では128人で約581両。
単純平均では一人当たり約4.5両分です。
真田宝物館は、このときの参府が10泊11日を要し、前年より日数が長かったことが割高になった理由と考えられる、と説明しています[3]。
桑名藩にも、請負の経済構造がよく見える事例があります。
安政6年、1859年の参府では、江戸の米屋田中家と桑名の米屋川瀬家が共同で通人足を請け負いました。こうした史料からは、藩が一人ひとりの人足を直接採用して管理するだけではなく、専門の商人が人足の調達や道中業務をまとめて担う仕組みが発達していたことが分かります[6]。
つまり、
「藩が払った金額=人足の手取り」
ではありません。
人員の確保、道中での統率、配置、遅延への対応などを含めた「プロジェクト代金」として見る必要があります。
なお、一両を現代の何円とみなすかは、米価、賃金、金銀相場など、何を基準にするかによって大きく変わります。
本稿では無理に現代円へ換算せず、人数、日数、請負額の関係から仕事の規模を捉えることにします。
第四章 「スポットワーク」が使われたのはいつからなのか
では、大名行列のスポットワークは、いつ頃から始まったのでしょうか。正確な開始年を一本の線で引くことは困難です。
しかし、品川区史には、18世紀前半にはすでに通日雇請負人が道中で活動していたことを示す具体的な記録があります。
寛保3年、1743年、江戸日本橋の通日雇請負人・米屋久右衛門が丹後田辺藩牧野家の供をして西上した記録が残されているのです[7]。
つまり少なくとも18世紀前半には、通しで人足を供給・統率する請負の世界が相当程度成立していたとみてよいでしょう。
そして19世紀になると、桑名藩や松代藩などの史料から、その具体的な人数や請負金額まで見えてきます[3][6]。
幕末まで、こうした外部労働力は大名の移動を支えていました。
第五章 募集は「貼り紙」だったのか
では、その人足はどのように集められたのでしょうか。町角に、
「急募。大名行列で荷物を運ぶ仕事。未経験可。まかない付き」
といった貼り紙が出ていたのでしょうか。
少なくとも、今回確認した史料から、
「大名家が町角に求人の貼り紙を出し、個人がその場で応募した」
とは確認できません。
むしろ見えてくるのは、藩や武家が必要な人数や業務を商人・請負人に発注し、その業者側が人足を編成する仕組みです[3][5][7]。
現代風に言えば、
「大名家→個人」
という求人サイト型ではなく、
「大名家→請負業者→働き手」
というB2B型の人材調達に近い。
スマートフォンはありません。
アプリもありません。
しかし、「需要を束ねる者」と「働き手を束ねる者」が存在した。
ここが重要です。
人材ビジネスの本質は、テクノロジーではありません。
「仕事がある場所」と「働く人がいる場所」を結ぶことです。
第六章 街道そのものが巨大な労働市場だった
さらに重要なのが宿場です。主要街道の宿場には、公用旅行者のために一定数の人馬を常備する義務がありました。
しかし、参勤交代などによって交通量が増えると、宿場だけの人馬では足りなくなります。
そこで周辺農村から人馬を集める仕組みが制度化されました。
「助郷」です。
国土交通省関東地方整備局によれば、小田原宿では元禄7年、1694年に助郷が制度化され、周辺79か村が指定されました。なかには小田原宿から三里以上離れた村もあり、人馬供出が農業や村の経済に深刻な負担をもたらしたと説明されています[8]。
国税庁税務大学校には、嘉永4年、1851年の「助郷人馬勤高書上帳」が残されています。
そこからも、人馬が不足したときには宿場と周辺村落が助郷役を負担し、その人数・馬数が村高などを基準に割り当てられていたことが確認できます[9]。
ここは現代の「自由なスポットワーク」とはかなり性質が違います。
助郷は、市場で自由に仕事を選ぶ仕組みではありません。
村々に課された負担でした。
ところが興味深いことに、その強制的な制度の周囲にも「市場」が生まれます。
嘉永3年、1850年、将軍徳川家慶の日光社参に際し、助郷を課された下総国の三坂新田は、指定された鹿沼宿まで人馬を供出することが困難でした。
そこで12両余を支払い、鹿沼宿側に代わりの人馬を雇ってもらっています。
自治体史に掲載された当時の領収書には、宿側が人馬を請け切り、「買揚人馬」として調達する趣旨が記されています[10]。
制度としては、
「人を出せ」。
しかし現実には、
「お金を出すから、代わりの人を調達してくれ」。
ここにもまた、制度と市場の混合がありました。
しかも助郷負担は農村にとって重く、各地で訴願や紛争の原因にもなりました[8][10]。
したがって、宿場から次の宿場まで荷物を運ぶ継立人足、助郷として動員される農民、長い区間を歩く通日雇などを、すべて「江戸のスキマバイト」と一括りにしてはいけません。
自由な雇用。
商業的な請負。
公的な賦役。
それらは別のものです。
大名行列は、自由な労働市場だけで動いていたのではありません。
市場と請負と賦役を組み合わせて動いていたのです。
第七章 大名行列は「社員旅行」ではなくサプライチェーンだった
こう考えると、大名行列の見え方が変わります。殿様を頂点として、その下に家老、藩士、足軽、中間、小者が一直線に並んでいた――という単純な組織図ではありません。
藩の家臣団がいる。
武家奉公人がいる。
通日雇がいる。
人宿がいる。
通日雇請負人がいる。
宿場の問屋場がいる。
宿場人足がいる。
助郷村がいる。
そして場合によっては、人馬を代わりに調達する者がいる。
一つの大名行列を動かすために、複数の身分、雇用、請負、公的負担が組み合わされていたのです。
これは「組織」というより、むしろネットワークです。
現代風に言えば、
コア社員、短期スタッフ、物流事業者、業務委託先、地域インフラを束ねたサプライチェーンに近い。
しかも、そのネットワークを何百キロにもわたって同期させなければならない。
江戸時代の人々は、ERPもSlackもTeamsもExcelもない時代に、それを動かしていたのです。
第八章 行列には「見せる仕事」があった
大名行列には、もう一つの側面があります。物流だけではありません。
「見せる」という機能です。
国立歴史民俗博物館は、近世には参勤交代をはじめ大小さまざまな行列が列島を往来し、行列が支配者の存在や武威を可視化する役割を持っていたことを紹介しています[11]。
つまり、大名行列には二つのKPIがあった、と考えると面白い。
一つは、
「殿様と荷物を安全に目的地まで運ぶ」。
もう一つは、
「立派に見える」。
前者だけなら、なるべく少人数で移動した方が合理的です。
後者を満たそうとすると、人数、衣装、槍、挟箱、馬印などが必要になります。
ここに、
経済合理性と組織のメンツとの壮大な戦い
が始まります。
藩財政は苦しい。
人数は減らしたい。
しかし、あまり貧相な行列では格好がつかない。
そこで外部労働力を組み合わせることに意味が生まれます。
ただし、通日雇をすべて「見せるためのサクラ」と理解するのも正確ではありません。
彼らは実際に荷物を運び、駕籠を担ぎ、道中を支える労働力でした[3][6]。
「格式」。
「固定費の抑制」。
「本当に必要な物流」。
この三つを同時に成立させる人材ポートフォリオだった、と読むことができます。
第九章 「大名行列の三分の一はアルバイト」は本当か
ここで、よく紹介される話があります。「大名行列の三分の一はアルバイトだった」
非常に魅力的な数字です。
その根拠として紹介されているのが、文政10年、1827年の加賀藩の事例です。
記事では、総勢1969人のうち臨時雇用が686人だったと紹介されています[4]。
計算すると約34.8%。
確かに、ほぼ三分の一です。
ただし、ここは慎重でなければなりません。
すべての藩。
すべての時代。
すべての参勤交代。
その三分の一が臨時雇用だったわけではありません。
まして、
「大名行列の大半はアルバイトだった」
と一般化することはできません。
藩、時代、行程、財政状態、荷物量によって構成は違ったはずです。
したがって、より正確には、
「大名行列には相当数の臨時的な労働力が含まれ、藩や時期によっては三分の一規模に達したと紹介される事例もある」
と表現するのが妥当でしょう。
なお、参照した記事には「文政10(1872)年」とありますが、文政10年は西暦1827年です。本稿では1827年に訂正しています[4]。
歴史は、誇張しなくても十分に面白いのです。
第十章 「士農工商」だけでは江戸社会は見えない
この話が面白いのは、大名行列だけではありません。私たちは江戸時代を、
士農工商。
主君と家臣。
藩と農民。
固定された身分社会。
という静止画で理解しがちです。
しかし、働くという視点から江戸社会を見直すと、別の風景が現れます。
奉公する。
日雇いで働く。
荷物を運ぶ。
仕事を請け負う。
農業の合間に稼ぐ。
人を紹介する。
人足をまとめて一つの仕事を完成させる。
身分秩序が存在したことと、労働力の需給を調整する仕組みが存在したことは矛盾しません。
むしろ巨大な身分秩序の内側で、人々は驚くほど現実的に、
働き、
雇い、
仲介し、
請け負い、
稼いでいたのです。
終章 殿様の後ろには「人材市場」が歩いていた
大名行列を遠くから眺めれば、封建制そのものに見えます。殿様がいる。
家臣がいる。
槍が並ぶ。
挟箱が続く。
格式があり、序列があり、命令があります。
しかし、その行列に近づいて一人ひとりの働き方を調べていくと、まったく別の景色が現れます。
この人は藩士。
この人は武家奉公人。
この人は通日雇。
この人は宿場から供給された人足。
この人馬は助郷村から来た。
そして、その背後には人宿や請負業者や宿場役人がいる。
5泊6日の仕事がある。
10泊11日の仕事がある。
100人を超える人足を請負業者がまとめて供給する仕事がある。
それは「空いた一時間だけ働く」という令和のスキマバイトとは違います。
むしろ、開催日と終了日が決まった大規模イベントのために、外部の労働力を期間限定で編成する仕事に近い。
つまり、大名行列とは「一枚岩の組織」ではありませんでした。
正規の家臣団を核にしながら、外部労働市場、請負、宿場制度、地域の人馬を組み合わせて成立する、巨大なプロジェクト型組織だったのです。
必要な仕事に対して、必要な時に、必要な労働力を外部から調達する。
固定的な組織だけですべてを抱え込まない。
専門業者が人材を集め、需要側と供給側を仲介する。
そうした経済機能そのものは、決して令和に突然誕生したものではありません。
スマートフォンもありません。
アプリもありません。
アルゴリズムによるマッチングもありません。
求人の貼り紙による公募だったとも確認できません。
けれど、
人宿があった。
通日雇がいた。
人足をまとめる請負人がいた。
宿場があった。
助郷があった。
入札や請負があった。
そして、仕事を必要とする者と、働く者をつなぐ人間がいた。
考えてみれば、人事の歴史とは、制度の歴史である以上に、
「必要な仕事と、働く人間をどう結びつけるか」
というマッチングの歴史なのかもしれません。
令和の私たちは、それを「タレントマーケットプレイス」と呼びます。
「スポットワーク」と呼びます。
「ギグワーク」と呼びます。
「外部人材活用」と呼びます。
しかし、その本質を突き詰めれば、
仕事がある。
人がいる。
その二つを誰かが結ぶ。
それだけなのです。
威風堂々たる大名行列。
その先頭には、殿様の威光がありました。
しかし最後尾までよく見れば、
そこにはすでに「労働市場」が歩いていたのです。
今日のひと言
殿の道槍のその影
人は継ぎ
名もなき働き
江戸を動かす
出典・参考資料
[1]国立国会図書館 レファレンス協同データベース「江戸時代、参勤交代などの際、大名行列がどのような掛け声をかけていたかを確認できる資料はあるか」URL: https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000216202&page=ref_view
[2]國學院大學「参勤交代行列の構造」
URL: https://www.kokugakuin.ac.jp/assets/uploads/2021/11/fab103c56dbf2f4cf82baf81e5c7e902.pdf
[3]真田宝物館『松代藩の参勤交代』
URL: https://www.sanadahoumotsukan.com/up_images/bok/bok_828b6e38.pdf
[4]「大名行列は藩の見栄の張り合い!」
URL: https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c08602/
注:記事本文では「文政10(1872)年」と記載されているが、文政10年は1827年。本稿では1827年として記載した。
[5]市川寛明「江戸における人宿商人の家業構成について――米屋田中家を事例に」『東京都江戸東京博物館研究報告』第8号、2002年
URL: https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I6201977
[6]西羽晃「参勤交代の人足請負」『尾野山隋風』第29号、2020年
URL: https://kuwakoob.com/onoyama/onoyama29.pdf
[7]品川区『品川区史 通史編 上巻』「通し日雇人足」
URL: https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000010/ht002740
[8]国土交通省 関東地方整備局「『助郷』(すけごう)とはなんのことですか?」
URL: https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0218.htm
[9]国税庁 税務大学校「年貢と諸役――嘉永4(1851)年 助郷人馬勤高書上帳」
URL: https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/shiryou/library/01.htm
[10]常総市デジタルミュージアム『水海道市史』助郷関係史料
URL: https://adeac.jp/joso-city/texthtml/d600010/mp000010-600010/ht400290
[11]国立歴史民俗博物館「行列にみる近世―武士と異国と祭礼と―」
URL: https://archive.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/121016/index.html
(各ウェブ資料は2026年9月21日閲覧)
2026年9月22日
大分県別府温泉にて
楠田 祐
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