人材を資源ではなく投資すべき資本と考える「人的資本経営」。その取り組みが、新たなフェーズを迎えている。活動の成果を広く社会に開示していこうという「人的資本開示」の動きが活発化してきている。まだ開示に着手している企業は上場企業が中心ではあるが、徐々に義務化の対象も拡大していくことが予想される。企業にとっては開示することで、受ける恩恵も大きい。そこで今回は、「人的資本開示」を進めるうえでの拠り所となるガイドラインや指針のほか、企業事例などもわかりやすく解説していきたい。
「人的資本開示」のガイドラインや指針とは? 7分野19項目の詳細や企業事例のほかいつから義務化なのかも解説

「人的資本開示」の国内での動きのほか義務化のガイドラインや指針とは

「人的資本開示」の定義を説明する前に、そもそも「人的資本」とは何かを説明したい。「人的資本」とは、従業員が持つ能力やスキル、資質を資本として捉える考え方だ。「人的資本開示」とは、その「人的資本」に関する情報を社外に公表することを指す。従業員の成長に向けてどのような方針で取り組んでいるのか、どんな成果が得られているのかなどが記載される。

●「人的資本開示」が必要とされている背景

・米国や欧州での義務化
米国や欧州では日本に先駆けて「人的資本開示」が義務化されている。例えば、欧州では2014年から「社会・従業員」を含む情報の開示が義務化された。また、米国では米国証券取引委員会が、2020年11月から上場企業に「人的資本」の情報開示を義務付けている。

・無形資産の価値向上
技術革新が加速するなか、「人的資産」やビジネスモデルなどの無形資産の価値が向上している。企業価値に大きな影響を与えるといっても過言ではなくなっている。無形資産の一角を成す「人的資本」の情報開示が求められているのも、そのためだ。無形資産が企業としての競争優位性の重要な要因となる、企業価値を持続的に高めていく推進力があると多くの企業や投資家が認識するようになったからである。

・投資家からの要請
投資家の多くが、経営者に対して人材戦略についての説明を求めている。こうした状況も、「人的資本開示」を促す一因になっていると言える。

・ESG投資に対する関心
近年、多くの投資家がESG投資に関心を寄せている。ESG投資とは、「環境(Environment)」「社会(Social)」「ガバナンス(Governance)」の3要素に注目した投資を意味する。なかでも、「人的資本」は、「社会」と「ガバナンス」に位置づけられるとあって、投資先を決める際の重要な指標に位置づけられている。そのため、日本企業も国内外の投資家からのニーズに基づき、「人的資本情報」の的確な開示が求められている。

●人的資本経営や人的資源との違い

企業にとって資本となる人材の価値を最大限に引き出し、企業の成長につなげていく経営手法が「人的資本経営」である。それを推進するにあたっての基本的な考え方や具体的な取り組み、活動の成果など「人的資本」に関連した情報を開示することが「人的資本開示」となる。「人的資本経営」が実践されて初めて「人的資本開示」が実施できるのだ。

また、「人的資源」とは人材を資源として捉える従来型の考え方である。資源は有効に活用・消費すべきものとなるため、コストも的確に管理しなければならない。一方、「人的資本」では人材の能力を伸ばすための費用は投資と捉えている。従業員それぞれが持つパフォーマンスを引き出し、発揮していくことで企業が成長し、経営戦略も実現していけると考えられている。

●「人的資本開示」義務化の動き

2023年3月期決算から、日本においても「人的資本」の情報開示が義務化された。現時点で対象となる企業は、金融商品取引法第24条で有価証券報告書などの提出が義務付けられている上場企業だ。その数は、4000社ほどに及ぶ。

必ず記載しなければいけない事項は、サステナビリティ情報の記載欄のうち「戦略」「指標及び目標」の2つだ。加えて、既に女性活躍推進法等に基づき「女性管理職比率」「男性の育児休業取得率」「男女間賃金格差」を公表している企業は、これらの指標についても記載が求められる。

●「人的資本開示」の動き

「人的資本開示」への取り組みは、欧米が先行した。ただ、日本もただ手をこまねいていたわけではない。むしろ、海外の動きも見極めながら、多角的な視点からさまざまな議論を重ねてきたと言って良い。実際に、国内では「人的資本開示」を巡ってどんな動きがあったのかを振り返ってみたい。

・人的資本可視化指針
「人的資本可視化指針」は2022年8月に非財務情報可視化研究会が公表した資料だ。人的資本の情報開示方法を記している。ポイントは、以下の4点となる。

(1)可視化における企業・経営者への期待
(2)経営戦略と人材戦略への投資のつながりの明確化
(3)ガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標の4つの要素に沿った開示
(4)開示事項の類型に合わせた個別事項の内容検討

・ISO 30414
「ISO 30414(アイエスオーサンゼロヨンイチヨン)」は、国際標準化機構が2018年に公表した「人的資本」に関する情報開示のガイドラインだ。ここでは、人材マネジメントに関する11もの領域の指標が定められており、すべての企業や組織で「人的資本開示」に関する報告書作成の指標として活用することができる。

・人材版伊藤レポート
「人材版伊藤レポート」は、経済産業省が2020年9月に「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」の最終成果物として発表された資料である。「人的資本経営」の実現に向けた3つの視点と具体的な取り組みに関する5つの共通要素を解説している。「人的資本経営」を検討する際の有益な資料として活用できる。2022年5月には、内容をさらに深掘り・高度化した「人材版伊藤レポート2.0」も公表された。

・非財務情報可視化研究会
「非財務情報可視化研究会」は、「人への投資」にフォーカスして非財務情報を可視化するフレームワークを策定したり、指針を編纂したりしている組織だ。2022年2月より内閣官房で定期的に会議が開かれている。この研究会では、「人的資本」を可視化する方法やその実現に向けた手順などを書き記した資料を作成している。

・非財務情報の開示指針研究会
「非財務情報の開示指針研究会」は、経済産業省が2021年6月から定期的に開いている研究会だ。開示方法の分析、開示指針や開示媒体のスタンスなどの世界的な開示動向を踏まえた議論を展開するとともに、「人的資本経営」の実現に向けた基本的な考え方や情報開示の手法をまとめた資料を作成している。

人的資本の情報開示に向けておさえておきたい7分野19項目

「人的資本」に関して情報開示すべき内容は、7分野19項目ある。それらについて触れておきたい。

●育成

育成分野は、情報開示が必須とされている。開示すべき項目は、「リーダーシップ」と「育成」「スキル・経験」の3項目だ。具体的には、従業員一人あたりの教育・研修費用や時間、研修プログラムの種類と対象者、人材定着に向けた取り組みなどが挙げられる。

●エンゲージメント

エンゲージメント分野は、情報開示が推奨されている分野である。エンゲージメントとは、従業員の愛社精神や満足度を意味する。従業員が仕事にやりがいを感じているか、仕事内容や職場環境に満足しているかなどが情報開示される。具体的には、エンゲージメントサーベイの結果やエンゲージメントの向上につながる取り組みを開示することが求められる。

●流動性

流動性とは人材の入れ替わりを意味する。この分野で開示すべき項目は、「採用」「維持」「サクセッション」の3つだ。具体的には、採用人数や社員の離職率・定着率、採用・離職コストなどが挙げられる。

●ダイバーシティ

ダイバーシティとは、従業員の多様性を指す。この分野も開示が必須とされている。開示すべき項目は「ダイバーシティ」「非差別」「育児休業」の3つだ。具体的には、男女の賃金格差・属性別の従業員や経営層の比率・男女別の育児休業取得数などが挙げられる。

●健康・安全

健康・安全分野で開示すべき項目は、「精神的健康」「身体的健康」「安全」の3つだ。具体的には、労働災害の発生件数や割合、死亡数のほか、健康・安全に関する取り組みの内容、安全衛生マネジメントシステムの導入の有無などが挙げられる。

●労働慣行

労働慣行分野は、企業と労働者との関係性が公正であるかを測る指標である。開示すべき項目としては、「労働慣行」「児童労働と強制労働」「賃金の公正性」「福利厚生」「組合との関係」に関する情報などがある。賃金が適正か、不正がないか、福利厚生にはどんな内容があるかを開示することが求められる。

●コンプライアンス・倫理

コンプライアンス・倫理分野では、企業が法律を守り、社会的な規範や倫理観に基づいて活動を行っているかどうかを測る。開示すべき項目としては、業務停止件数や苦情の件数、差別事例の件数とその対応措置、ハラスメント実態調査の結果、コンプライアンスや人権に関する研修を受けた従業員の割合などがある。

自社のヒントにしたい「人的資本開示」の企業事例を紹介

「人的資本」の情報開示を進めるにあたっては、他社の「人的資本開示」の事例をぜひ参考にしたい。ここでは、独自性の高い4つの開示例を紹介しよう。

●丸井グループ

丸井グループでは、「お客さまのお役に立つために進化し続ける」「人の成長=企業の成長」を企業の経営理念として掲げている。同社では有価証券報告書に多様性の推進に関する取り組みとして、女性活躍の取り組みの進捗状況を測る「女性のイキイキ指数」を記載している。全社員の半数弱が女性である同社ならではの独自な項目と言える。また、単なる羅列ではなく「人的資本経営」のストーリー性を表現している点も参考になる。

●双日

双日は、自社の最大の財産は人材であると位置付けており、人材戦略の3つの柱として「多様性を活かす」「挑戦を促す」「成長を実感できる」を掲げている。また、価値創造実現に向けた人材KPIも設定し、人事施策の理解・浸透度を定量的に効果測定している。

同社が事業の成長と関連性がある社会課題を特定して、その解決に向けていかに取り組んでいるかを開示している点は参考となる。また、人権尊重に向けた取り組みについて積極的に情報開示しているのも同社らしさと言える。

●三井化学

同社では従業員およびステークホルダーに対して、グループの人材に関する考え方を示すために、「三井化学グループ人材マネジメント方針」を制定。それを踏まえて、さまざまな人事施策を展開している。それぞれの進捗に関しても、「キータレントマネジメント」「ダイバーシティ」「従業員エンゲージメント向上」の3分野でいくつかの指標を掲げ、目標と実績の具体的な数値を公開している。

●日立製作所

日立製作所では、サステナビリティを自社にとっての大きな成長機会と位置付けている。サステナビリティ目標達成の重要なテーマとして掲げられているのが、「人的資本」の充実だ。「why」「what」「how」の視点から経営戦略に連動した人財戦略を開示。人財戦略目標に対する定量的なKPI設定と中計達成に向けた人財施策を実行するとともに、それぞれの実績を具体的な数値も含めて公開している。
近年、企業価値における無形資産の重要性が高まっている。なかでも、従業員が有する能力や経験などを資本と捉える「人的資本」は、大きなウェートを占めている。投資家も、「人的資本」は投資先を決める際の判断材料としているほどだ。それだけに、「人的資本開示」は投資家を含めたすべてのステークホルダーに向けて、企業として取り組むべき重要なアプローチとなる。いかに自社の魅力を伝えるか。数字を並べただけでは説得力に欠けるだけに、先進的な企業の事例を参考にしながら適切な開示を進めていただきたい。
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