本連載ではこれまで2回にわたって、アジアで活躍する人材ビジネス業界のキーパーソンたちに成功の秘訣を語ってもらった。シリーズ第3弾の今回は、微笑みと多様性の国タイが舞台。個人的には旅行や商用でわずかに訪れたことしかない、いわば未知の国であったが、今回の対談を通じてタイが持つ文化と国民性の一端を垣間見ることができた。それは、「人々がそれぞれの違いを尊重し合い、共生する」というこの国ならではの伝統だった。
第38話:タイから学ぶ「ダイバーシティ&インクルージョン」の本質。違いを尊重するタイ社会とビジネス
タイの多様性を語る際によく挙げられるものに、性差に関しての寛容性がある。性転換や同性婚などセクシュアル・マイノリティへの偏見は極端に少なく、型にはまった考え方をしない民族性を持ち合わせている。とはいえ、他者に対して無関心というわけでもない。むしろ、人への関心は強いほうで、ここにタイの国民性を知るカギがあるのだと感じた。

今回の対談相手は、タイで人材紹介会社を運営するパーソネルコンサルタントマンパワー株式会社の小田原靖社長。同社は1994年に設立。タイにある日系人材会社として長い歴史を持つ会社の一つだ。これまでの紹介累計実績は15万人を優に超える。タイ労働省から表彰を受けたこともある大手企業でもある。その小田原社長にタイ市場を取り巻く諸事情を聞いた。

ベンチャー志向のタイ人気質

稲垣:まずは、小田原社長のプロフィールを教えてください。

小田原:福岡県の出身です。高校卒業まで福岡市内で育ち、大学進学を機にアメリカ・オレゴン州に単身渡りました。現地の大学を1992年に卒業。「海外で働きたい」という思いが強かったために、日本にも近く、経済成長が始まったばかりのマレーシアで職探しを始めました。ところが、なかなか見つからない。そこで隣国のタイに渡り、仕事を探すことに。運よく当地で就職することができたのですが、次第に「自分で経営をしてみたい」という思いが募るようになり、1994年に当社を立ち上げました。

稲垣:間もなく創業30周年になりますね。起業した1994年ごろのタイは、どのような状況だったのですか?

小田原:日本企業のタイ進出ラッシュは、私が当地を訪れる5〜6年前の80年代末から始まっていました。例えば、伊勢丹は1992年に、ホンダが1993年にそれぞれタイに拠点を構えています。その前後にも様々な日系企業が進出しており、こうした流れは20年以上も続きました。その中心にあったのが自動車産業で、2015〜16年頃まではそれとともにタイ経済も大きく成長を遂げました。

稲垣:日本企業のタイ進出においては、自動車産業が一気にけん引し、徐々に裾野産業ができ上がっていったという形ですね。現在はどういった産業が進出しているのでしょうか。

小田原:2000年代は裾野産業も含め製造業に関わる企業の進出が中心でしたが、2010年代に入ると、日系製造業やそこで働く人々、さらには一般的なタイ人消費者層を対象としたサービス関連企業も進出を果たすようになりました。タイ市場を一つのマーケットとして認識するようになったのです。それ以前はタイ国内の購買力もまだまだ力強さに乏しく、例えばデパートに行ってもタイ人向け一般消費剤の陳列はごくわずか。それがタイの所得水準がだんだんと向上したことで、一般消費者層にまで消費が拡大していったのです。

稲垣:私にとって関わりが深いインドネシアでは、ユニコーン企業(企業評価額が10億ドル以上の未上場のメガベンチャー)が結構生まれます。一方でタイでは、メガベンチャーの存在をあまり聞きませんが。

小田原:タイでメガベンチャーが育たないということはありません。ここ数年を見ただけでも、時代を先取りした代替たんぱく質の生産や環境問題など特定の研究テーマに特化した若いベンチャー企業がいくつも育っています。ただ、タイでは主に中華系にルーツを持つ財閥の力が伝統的に強く、せっかくスタートアップを遂げて成長しても、財閥が資本力を背景に買収に動き、系列化してしまうケースが少なくないのです。

稲垣:「ベンチャーは育ちにくい」という環境があるのでしょうか。

小田原:確かに、一面から見ればそう見えるのかもしれませんが、タイ人は性格的に保守的な傾向はありながらも非常に自由を尊びます。「他者に雇用されるよりは、自分で起業してみたい」という思いが強いため、社会全体としてみればベンチャー精神は非常に高いということができるでしょう。例えば、誰もが知る大手グローバル企業に就職をしておきながら、数年後には会社を辞めて市場でオリジナルTシャツを売っているような人が少なくありません。組織内で働くことの大切さを実感しながらも、「一度きりの人生を自由に送りたい」という意識が強く、夢を求める独立心が高いのだと思われます。それが、ベンチャー精神につながっているのだと考えられます。

稲垣:小規模なベンチャー企業が多数起業されながらも、ある程度成功して大きくなると、財閥が買収していくというのがタイの繰り返されているパターンなのですね。
ベンチャー志向のタイ人気質

変わらない日本人のタイ人像

稲垣:タイに進出する企業、もしくは日本人がタイに赴任する際に気をつけるべきポイントを教えてください。

小田原:日本人駐在員が帰着任する際、前任者が後任に引継ぎを行いますが、ここに適切とは思われない古い認識や誤解が今なお残っているように感じてなりません。例えば、日系社会でよく聞かれる「タイ人は時間を守らない」「約束を守らない」などという杓子定規的な固定観念です。確かに見方によれば、そう受け止められてもやむを得ない時期も過去にはありました。ただ、それは1990年代までのこと。全国に農村が広がる中、サラリーマンがまだ少なく、会社に勤めることがどのようなものなのか、国民の間でも十分に共有されているとはいえない時代の出来事でした。

それから20年以上が経過し、タイ社会も随分と進化し、働く人々の意識も成長しました。都市人口も増え、会社勤めも当たり前となりました。そうした中にあって果たして今、時間を守らない、あるいは約束を守らないタイ人がどれほどいるというのでしょうか。仕事柄、多くのタイ人求職者を見てきましたが、もはやそのようなルーズと受け止められる人は少なくなりました。それなのに、未だに日本人が抱くタイ人像だけは変わらない。残念な一方で、日系企業がタイで事業を遂行するにあたっての大きな足かせになっているとさえ思えるのです。

約束やルールが守られていないというのなら、その約束事がきちんとルール化され、社内で共有化されているかを検証すべきです。配下のタイ人スタッフに対し午前8時半の出社を求めておきながら、日本人の上司が9時や9時半に出勤するようでは、秩序は到底保たれません。21世紀も20年以上が経過した現在、タイ人は出勤時間を守らないなどという誤った認識は直ちに是正されるべきだと思っています。「タイ人はこうなんだ」という、ずっと変わらない申し送りを続けている日本企業が少なくないことにとても不安を感じています。

タイの人材市場が成熟してきたことは、会社内のポストの配置やタイ人マネージャーの増加の観点からも見て取れます。1990年代までの一時期、タイに進出する日系企業の多くは、社長や副社長はもちろんのこと、生産や品質管理、営業、購買、総務、事務などあらゆる部門のマネージャーに日本人駐在員を配置していました。タイ人従業員は日本人マネージャーの下で指示を受けて働くという構図が一般的でした。

ところが、この20数年の間にしっかりとローカル化を果たした会社は次々とタイ人マネージャーの起用に切り替え、組織の現地化を進めています。ローカル化や現地化はコスト削減の一方で、働く人々のモチベーションアップにもつながる効果を与えてくれます。あらゆる部門のマネージャーがタイ人スタッフに配置換えされ、社長だけ日本人という会社も珍しくなくなりました。その背景に、働くタイ人スタッフのスキルアップや成長があることはもはや言うまでもありません。

稲垣:ローカル化・現地化は、時代の当然の要請といえます。今の新社会人は、2000年直前に生まれた人達ですから、かつての時代とは知識も常識も全く異なるわけです。ITリテラシーや教育水準一つにしても、全然違います。
変わらない日本人のタイ人像

違いを尊重し合い、心を配る文化

稲垣:21世紀初頭以降、タイの人材市場が大きくスキルアップし、成長を続けてきたということがよく分かりました。一方で、タイの皆さんが大切にしている伝統的な「タイ人らしさ」という面も大きく影響しているのではないかと考えます。タイ社会とはどんな社会なのか。いわゆるタイ人気質なるものと合わせてご教示いただけますか。

小田原:「サバーイ」「サヌック」「スワイ」というタイ語の3Sをご存じでしょうか。順に、「心地良い」「楽しい」「美しい(きれい)」と訳すことができますが、これがタイ社会の本質を表していると思います。日常生活のみならず、仕事においても心地良い、あるいは楽しく、美しいこと(秩序立っている)が何よりも求められます。楽しいとはお腹を抱えて笑うことを意味しません。仕事をしていて充実感がある、心の通じ合う同僚とやりがいを感じるという点が何よりも重視されるのです。

ですから、しかめっ面でシリアスな顔をしながら仕事机に向かうタイ人はまずいません。そのような環境下で働くことに価値や意義を感じませんし、楽しくなければ次の職場に転職するだけのことです。その意味では、離職もいとわない自由で気ままな国民性だということもできるかもしれません。タイ人従業員を雇用する外国企業としては、こうした点にまずは配慮を置かなくてはなりません。誤解を恐れずに申し上げれば、ある種のゲーム性を兼ね備えた職場環境の整備が求められています。

日本社会では美徳の一つともされる「我慢強さ」も、タイでは多くの場合、関心を持たれることはないでしょう。心地良いわけでもなく、楽しくもなく、美しくもないものに目的意識を見つけることは困難というわけです。タイ人スタッフも日本人と同様、仕事に対してもスキルアップに対しても努力し頑張りますが、日本社会特有の我慢強さという面から物足りなさを感じるのは、こうした理由からなのでしょう。この点は日本との大きな違いかもしれません。

稲垣:タイは性差に対して非常に寛容と聞きます。日本では、男性と女性、もしくは最近は女性っぽい男性や男性っぽい女性など、4種類ほどという感覚がありますが、タイに精通している方から聞いた話では、「実はタイには何十種類もの性別がある」とのことです。

小田原:性差に関しては、非常に寛容です。寛容というよりも、「気にしていない」というほうが正しいかもしれません。自分と同じ職場に、少数の性的アイデンティティを持つ人が在籍したいたとしても、「だから何?」という感じです。それはもう「髭を生やしている」とか、「メガネをかけている」といった程度の問題なのではないでしょうか。一部の日系社会などでは、外見の性別を未だに問題視するケースがあるようですが、タイは時代の数歩先を歩んでいることを忘れてはなりません。

稲垣:性差は、あまり重要なことではないというコンセンサスがあるということでしょうか。

小田原:一言で言えばそういうことではないでしょうか。性差を含めたその人の全てをありのままに受け入れ、相手にどう接していくかがタイでは最も大切なことだと考えられています。例えば、男性を見て「かっこいいですね」と声を掛ければ喜ばれるのか、きれいですねと声を掛けてあげたほうが良いのか、それは人それぞれ千差万別です。そこに、性別や見た目などだけでは判断しないというタイ社会の基本的な考え方があるのです。

稲垣:内面を見て、その人を理解してほしい。見てほしいところをちゃんと理解できるかが大事だということですね。

小田原:そうです。
違いを尊重し合い、心を配る文化
稲垣:その点はとても大切なポイントのように感じられます。同時に、個性よりも同質性が優先されやすい日本社会との大きな違いのようにも思われます。

小田原:ありのままを受け入れて尊重し合い、相手に心を配り、共生するということがタイ社会の本質だと私は思っています。例えば、タイの日常的な挨拶の中に、「どこ行くのですか?」「ご飯は食べましたか?」というものがあります。直訳すれば何ということのない、むしろ、どうしてそんなことを聞くのかと思うような挨拶です。

しかしながら、それは、これから向かおうとしている目的地がどこなのか、果たして食事は終えたのかということを単に知りたくて発せられているのではありません。「いつもあなたのことを思っていますよ」「有意義な時間を送ってくださいね」というタイ社会特有の優しさや配慮が言外に含まれていることを私たちはもっと知るべきだと思っています。

私自身、会社内ではタイ人スタッフに積極的に声を掛けるようにしています。週明けの出勤時には、「日曜日は何をしていましたか?」「体調はどうですか?」などと。両親と離れて暮らしているスタッフがいれば、「故郷のご両親はどう?」と気遣う一言も。子育て中の人に対しては、「子供は元気にしていますか?」という具合に可能な限り話しかけるようにしています。

稲垣:「あなたを思っています」という感覚が重要なのですね。

小田原:「あなたのことを気にしていますよ」ということが伝わって、初めて相手も打ち解けてくれます。日本では、「そんなことは尋ねてはいけない」「プライバシーだ」などと問題視されるようなことでも、タイでは何ら躊躇なく会話の遡上に上ってきます。聞いてあげたほうがよい。むしろ、そのような時さえあるのです。

部下を叱らないタイ社会

稲垣:タイの管理職にある人たちは、部下を叱らないと耳にしましたが、どういうことでしょうか。

小田原:会社内で、または一般的なタイの社会で、上司が部下を叱るようなケースはほとんど目にしません。大きな声を出して叱責するようなこともまずありません。大きな声を上げるということは、人間的に未成熟と見なされることが多く、上に立つ者の取る態度ではないとタイ社会では受け止められています。

稲垣:同じ間違いを繰り返す、あるいは何回言っても行動を改善できないケースでも、同様に叱ることはないのでしょうか。

小田原:タイではまずありえません。大きな声を出すことで、品がない人もしくは人間的に徳がない人だと人々は感じてしまいます。仏教の教えに「タンブン=徳を積む」という考え方がありますが、それと同根です。徳を積むことができなければ良い人生を全うできない、有意義な人生は送ることはできないとタイ人は考えます。他者に大声を浴びせるようなことをタイ社会は好みません。先にご紹介した「サバーイ」「サヌック」「スワイ」からも、それは理解できると思います。

もちろん、問題があれば注意や指導はしなければなりません。ですが、あくまで上司は部下を諭し、指導する立場でなくてはなりません。思いの通りに進まないからといって叱り飛ばすなどということは、タイではあってはならないことなのです。

それは「無理はしない」という伝統的なタイ人気質も影響しているかと思います。長大な陸路国境を維持してきた歴史的な事情や熱帯という過酷な環境下、タイ社会ではベストよりもベターが求められることがよくあります。大学の成績評価でいうならば、「優」ではなく「良」で良しとするといった感覚です。無理をすることで失うものがあることをタイ人は肌身で感じ取っています。大声を上げることを避けるのも、その一つの現れと考えていいでしょう。

だからでしょうか。タイ経済も二桁台の高度成長とまではいかないまでも、この数十年間、絶え間なくなだらかに成長しています。無理をしないから一気に成長を遂げることはありませんが、半面で急激な落ち込みもめったにありません。成長の幅はわずかでも、継続してゆっくりと成長を続けている。そうした緩やかな幸福の積み重ねが、タイでは最も価値のある生き方とされているのではないのでしょうか。
部下を叱らないタイ社会

対談を終えて

寛容性が高く、違いを尊重し合い、他者との共生を目指すタイ。小田原社長の話を聞いて強く印象に残った言葉だった。「何でもない」「大丈夫」などと直訳される「マイペンライ」も、本来は「気持ちを落ち着けましょう。そのほうがあなたにとって幸せです」というニュアンスが含まれていることも初めて知ることができた。「無理をしない」というタイ人気質も、その文脈で理解すべきことも分かった。

他者への関心も薄いのではない。関心があるから違いを認め合っているのだ。「あなたも幸せになってほしい」「あなたのこと見ていますよ」というメッセージを含意して。まさに、ダイバーシティ(多様性)&インクルージョン(包括)の精神そのものといっていい。南国の大地に、現代のビジネス環境を先取りした文化がはるか古来から根付いていたことに今さらながら驚きを禁じ得なかった。
二人の写真
取材協力:小田原靖氏
PERSONNEL CONSULTANT MANPOWER(THAILAND) CO., LTD. 代表取締役社長
福岡市出身。1993年に渡タイ。1994年に日系企業のサポートをするパーソネルコンサルタント社をバンコクに設立。以降28年間、約1万社の在タイ日系企業向けに、「人材」、「言語」、「教育」をキーワードに、人材紹介、レンタルオフィスや貸し会議室、通訳者の派遣、翻訳、社員研修、日本への技能実習生の派遣等の事業を展開している。この28年間で数千社の日系企業のタイ進出の支援をしている。バンコクスリウォンロータリークラブ110期、112期会長。世界で活躍する日本人起業家の集まりである「WAOJE」の代表理事を2年間(2020〜22年)務める。タイ国日本人会理事。
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