前回の、宗教リテラシー特集(3)仏教【前編】「『universal self』 としての『私』こそ、宗教としての気づき」(※)では、日本人の宗教観や日本の若者への期待、そして世の中で宗教の対立が起こる理由に迫った。後半は、「宗教を理解する必要性」について踏み込んで議論していく。

※宗教リテラシー特集(3)仏教【前編】「『universal self』 としての『私』こそ、宗教としての気づき」
第14話:効率重視のマインドフルネスよりも「凡夫のゲーム」を降りる一瞬にこそ意味がある

「凡夫のゲーム」から降りること

人間は「出会うものすべてが私」だった乳児期から、幼児期に「私は世界の中心ではなかった。私は世界のすべてではない」と気づき、折り合いをつけながら成長していく。しかし、「1番になりたい」という気持ちは捨てられないため、学校のクラスや会社、組織のなかで競う「ゲーム」を続ける人生を歩む、というネルケ氏。

稲垣 「自分」という認識を持ってからの人生は、「ゲーム」であるということですか。

ネルケ 宗教とは何かというと、まず、人生が「ゲーム」だということに気づくことから始まります。これは「凡夫のゲーム」、「損得のゲーム」です。自分と他者を区別している、「ネルケ無方」というラベルがついた私だけが「私」ではなかった、つまり、根底にあるものが本当の私であるということに気づくことです。自分のよりどころは何かというと、「ネルケ無方」というラベルがつく前、「僕」と「君」という言葉ができる前の自己です。しかし、みんなそのよりどころを忘れてしまっている。だからこそ、「俺の神様とお前の神様はどちらが正しいか」という喧嘩をしてしまうんです。

その根底には、比較のできない真実があるはずです。それを仏教では「如来」とか「真如」とか、「仏性」だとか、いろいろな言葉で指します。みんなそれらの真実を生きていながら、見ている世界は、1番になりたいという「ゲーム」です。「マインドフルネス」も、本当は、このゲームを降りるためのものだったはずです。しかし、いつの間にか「ゲームに勝つためのマインドフルネス」というビジネスになってしまっている側面がある。

たとえば、映画『マトリックス』でいわれていたような、「自由になりたい」という意思が仏教だったはずなのに、ゲームに勝ち抜くためにマインドフルネスを使っている。それでは結局、ゲームの奴隷であり続けているだけに過ぎないじゃないか、と思います。ところが、最近の若い人と話していると、彼らの方がこのゲームの儚さに気付いているように感じます。

稲垣 たぶん、彼らは僕たちの世代よりも情報リテラシーが高くて、最初からさまざまな情報に接しているので、「トマトの弱さ」、「カボチャの儚さ」を知っているのかもしれないですね。しかし、それが「キュウリという理想型」に到達できるかどうかというところが大事だと思います(※仏教【前編】「トマトでもなくカボチャでもなく、キュウリのように育ってほしい」

ネルケさんのご著書にも出てくる言葉ですが、沢木興道老師の名言「自分が自分を自分する」という究極の状態を言い表したものがあります。私もいずれそうありたいと思うのですが、今、自分がそうなれるとは思えない。もちろん、「ゲーム」や自己欺瞞から抜け出すことが大事だという気持ちはあります。そのゲームをくだらないものだという認識がありながらも、何か「自分を認めてほしい」とか、「自分がやっていることが正しいと感じたい」とかいう思いがある。まだゲームに勝ってもいないなら、勝つことや参加することの無意味さについて語る資格がないというか……。いずれは「自分が自分を自分する」という人間性を獲得したいと思いますが、私には、まだ自己欺瞞のゲームから抜け出したくないという感覚が、少なからずあります。もう45歳なのに(笑)。

若い人と話をしていると、確かに我々よりも愚かなゲームはしてないかもしれませんが、無駄のない効率的な生き方にばかり偏っている人もいると感じます。無意味なことをするから意味を感じられる。最短距離で悟ろうとせずに、「遠回りもしてみたら?」と思ってしまう自分がいます。

ネルケ ここ30年間ほどの今までの日本では、「トマトじゃだめだから、カボチャになりなさい」という教育が主流だったと思いますね。実際に中身を開けたら、カボチャのふりをしているトマトばかりなんだけれども。世間では「自立」とか「主体性」とかばかり、やたらと重要視されていますよね。「自分の夢を持ってそれを追いかけなさい」とばかり言われる。でも、それは結局「西洋型のカボチャ」であって、キュウリではありません。今までの日本で「自己を持て」といわれたのは、仏教でいう「自己」ではないんですね。「自分らしさ」などという言葉でよくいわれますが、これは仏教でいう自己をよりどころとするわけではない。仏教では「ネルケ無方」も「自分らしさ」もどうでもいい。あってもなくてもいい。主張しても主張しなくてもいい。むしろ、その根底にあるものは何かが大切です。それは、平たくいえば「命」であり「今、ここ」。今日という日が現にあり、今ここに私は生きている。それは「ネルケ無方」という形で生きているけれども、「ネルケ無方」は別にみんなと同じでいい。ある意味で、トマトとして生きたっていいけれども、たとえ支柱が倒れたとしても絶対に揺るがない自信、私はここにあるという意思をどう持つべきなのかが根底にあります。
第14話:効率重視のマインドフルネスよりも「凡夫のゲーム」を降りる一瞬にこそ意味がある
さきほどの「ゲーム」のお話では、稲垣さんもやめられないとおっしゃいましたけれども、降りるには、大乗仏教でも、初期仏教では結局出家するしか方法はありません。仕事をしてはいけない。料理すらしてはいけない。在家の信者に用意してもらって、頂いたものを食べる。もちろん、結婚したり子供をもうけたりすることもない。今の大乗仏教はだいぶゆるくなっていて、私も結婚し、子供を持っています。そういった意味では、私もゲームに参加しているんです。ただ、私が大事だと思うのは、「このゲームのルールを少し変えられたら」ということです。

今までのルールにこだわる必要はありません。この世界は、損得で動く世界ですから、100円でも損したら「損」ですし、ポイントを稼いだときは「得」になる。稼ぐことはいいことで、損することは悪いことと決まっている。ただ、なぜあらゆる宗教で布施することはいいこととされるのか。常識で考えれば損でしかないけれど、100円を手放したとき、その一瞬だけルールから自由になっているわけです。坐禅をしても何にもならない。でも、ゲームをいったん降りて坐禅をすると、「あ、人生はゲームだったんだ」と気づくんです。

コンピューターゲームならば、やめれば現実の生活に戻れるわけですけれども、私たちがやっているこの世界の「ゲーム」では、どのみちゲームオーバーのときにはこのポイントはどこに持っていけるわけでもありません。自分が稼いだポイントをシェアしたり、周りとポイント数を比較するよりもお互いに楽しくやることが大事であるということに気づいたりして、「みんなが楽しくできるためにどうしたらいいんだ」と考えることが大切なんですね。この世界は結局全部ゲームですから、再びゲームに戻るしかないけれども、少し余裕を持ちたいですね。

ラグビーでもサッカーでもそうですが、「絶対勝たなくちゃいけない」と思ったら、相手を怪我させてまでプレーをするしかない。それでファールをとられてポイントを損したとしても、相手のエース選手を怪我させたならば結局は得だという理屈になってしまうわけですね。ライバルを蹴落とさなくちゃいけないという世界です。しかし、そうじゃなくて、「同じピッチでプレーをしている者同士じゃないか」という気づきを持っていたら、ゲームの仕方が変わると思います。ラグビーでもサッカーでも、私たちがやっているこの「凡夫のゲーム」でも、自分が正しいと思ったら相手は間違っている、自分が間違っていたら相手が正しいと言う。しかし、そうではないんです。「どちらが正しいか」ではなく、「みんな凡夫じゃないか」と気づくことです。しかし、みんななかなか気づけない。

ですから、ゲームを少し外側から見ることが大切ですね。でも結局はゲームでしかないんだから、ちょっと離れた立場から見て、みんなが楽しくできるためにはどうしたらいいかを考える。今まではポイントがすべてだったけれど、そうじゃないんだと気づく。GDPはすべてじゃないし、国がすべてじゃない。家族がすべてかというとそうじゃないし、「私」という個人がすべてかというとそうでもない。人は、どうせ死ぬんだから。ゲームはどうせ終わるんだから。ゲームに参加している今、最善のプレーをするにはどうしたらいいかを考える方がいいのです。

完全にゲームから降りることはできないから、「少し降りる時間」をつくる

稲垣 今までの話の流れからすると愚問かもしれないのですが、あえてうかがいます。「欲」とは悪いことなんでしょうか。欲が人を豊かにするという側面を否定できない自分がいます。私が今日ネルケさんにお会いできたのは、携帯やメールという便利なツールがあったからです。これを生み出した源は、人間の欲だと思います。しかし、欲が支配する「ゲーム」に溺れてしまえば、不幸な結果を招くことも理解できます。みんなが欲を持たずゲームを降りることが正解なのか、欲をうまくコントロールするのが正しいのか。どちらとお考えでしょうか。

ネルケ そこは非常に難しいですね。20年前はまだ安泰寺にインターネットはきておらず、私もインターネットというものは噂でしか知らなかった。「どうやらインターネットというものは世界につながっているらしい」という程度です。2001年に山を降りて初めてすごく便利なものだと知りました。一瞬にしてドイツにメールを送れるし、お金もかからない。それまでは母国のニュースを知るために高いお金を出して海外の新聞を買っていましたが、ただで手に入る。しかも、自分から情報を発信することもできる。スマートフォンがあって、タブレットがあって、いつも世界とつながっている。

ただ、便利になって多くの人と触れ合う時間が増えたかというと、逆になくなったと思いますね。ずっとスマホをいじっているから、FacebookといったSNSによって友達は世界中に増えているけども、実際に友達と向き合う時間は少なくなった。これに気づいている人はすごく多いと思います。この20年、ある意味では世界がすごく広くなったようだけれども、どこにその世界はあるのか。横にいる自分の妻とすら会話しなくなった。子供とも向き合わなくなった。気がつけば便利な道具の奴隷になってしまった。YouTubeで世界中に情報を発信しているけれども、次の日に「いいね」が何個ついたかばかり気にして、結局「ゲーム」に戻ってしまう。YouTubeでは「ゲームを降りよう」という話を発信しているのに、次の日に何人が見たか気にするのでは、結局自分がゲームに支配されていることと同じです。1日24時間、自分が時間を使って生きている割合と、時間に使われている割合はどうかというと、恐らく後者の方が多いでしょう。ゲームを降りようと思いながらも、完全に降りることは難しいんです。

なぜ、禅宗では毎朝坐禅するのかというと、この「ゲームを降りて誰にも使われない時間を持つ」という視点を持つためなんです。5分でも10分でもいいんです。朝起きて時間に支配されない10分間を持ち、ゲームを一瞬降りる。だからこそ、何か目的を求めるマインドフルネスではなく、ただ坐ることが大事なんです。効率的に生きるために坐るのなら、結局坐禅も自分を「凡夫のゲーム」に引きつけて、便利な物の奴隷にしてしまうから。ゲームを完全にはやめられないし、近代の西洋型文化・文明も捨てられないでしょう。けれども、ちょっと一服できる場所を用意するために坐禅をするのです。

稲垣 なるほど。いきなり100%ゲームから降りなくてもいいんですね。生きていれば完全にゲームから降りることはできないので、1日たった5分でもいいから意識的に、少し「降りる時間」をつくると。

ネルケ はい。1日のうち1%でもそういう時間をつくって一服する。それこそ「茶の文化」でもあったはずですね。茶室があり、そこでただ一服のお茶を頂く。それこそ、欧米では「マインドフルネス」という言葉をまだ誰も知らなかった頃、800年も前から日本人はそれをおこなっていたんです。農民も武士も、たとえ豊臣秀吉でも、茶室の入り口で肩書きを降ろして、小さな部屋に入る。床の間に据えてある一輪の花を眺めて、一服のお茶をいかに味わえるかを大切にしました。現代では、「茶の文化」と聞くと、お金持ちのご婦人方が高い着物を着て、お互い見栄を張り合いに集まっている、というような贅沢な趣味のイメージもついているかもしれません。実際に、その程度の目的でお茶をやる人もいるのでしょうけれども、本来は違っていたはずです。凡夫のゲームから離れ、一服するための茶道であり、禅だったはずです。
第14話:効率重視のマインドフルネスよりも「凡夫のゲーム」を降りる一瞬にこそ意味がある

AIによって宗教はなくなるのか

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