AIによって宗教はなくなるのか

稲垣 最後にひとつ、お聞きしたいことがあります。これは私の興味本位ですが、このまま物理学やAIといったテクノロジーが発達していった世界でも、宗教は存在するのでしょうか。「神は存在しない」とした理論物理学者のスティーヴン・ホーキング博士に対し、キリスト教を中心とした一神教の宗教者や信者から大きな批判が起きたことは有名な話ですが、仮に物理学やAIを含むテクノロジーによって世の中のあらゆることが解明され、人知を超えた新たな道徳観・倫理観が生まれたとき、宗教というものは存在し得るのだろうか、という素朴な疑問です。

今、アメリカのビジネススクールMITが、倫理のジレンマとして有名な思考実験「トロッコ問題(※)」を題材に、「モラル・マシン」という公開実験をインターネット上で実施しています。さまざまな人命のかかった二者択一のシチュエーションで、どの命を救うかを選択させる、人間の道徳観念を問う倫理学の実験です。MTIいわく、「将来、人工知能を搭載した機械が、人間の命に関わる意思決定を迫られることが予測される」と。人間が答えを出せずに「神」や「宗教」に委ねている部分について、機械が「正しい答え」を出せる世の中になるのでしょうか。昔見たSF映画のようですが。

ネルケ 「トロッコ問題」は、「5人のために1人を犠牲にしてよいか」という問いに始まります。「5人が救われるのだったら、この1人は殺してもいい」という人もいれば、「いくらなんでも、人の命は数量化できないから、ここではラベルをひかない」という人もいるでしょう。今おっしゃったように、AIでは、いろいろな条件によって答えを出すシステムです。たとえば、「5人の方は貧乏だから、1人の金持ちの方を救おう」というアルゴリズムはできる。しかし、この「1人」が実は「あなた」だったとなると、人間の答えは変わるんですよね。でも、それはAIには理解できないはずです。恐らく、AIには「この人は“あなた”である」という概念はない。だからこそ公正であり平等ともいえるのですが。

ただ、私たちが人間である以上、たとえこの「5人」がみんな東京大学を卒業した、立派で美しい、救うべき人間であっても、反対側の「1人」が自分であったら、それがたとえ貧乏で憎たらしい人間でも、守らなくちゃいけない、死にたくないという思いが生まれるんですね。この5人のために犠牲になってもいいという、それこそ本当に菩薩のような人も、少数ながらいるかもしれないけれど、そういった人の存在はたぶんAIには計算できないでしょうね。そして、「自分の身が1番かわいい」という気持ちは、AIじゃないからこそ持っているものです。みんなそう思っています。稲垣さんも自分が1番大切だと思っていることは、私も頭では理解しています。でも、稲垣さんは私じゃない。この矛盾があるからこそ宗教が存在すると思うんですね。

いろいろな手を使って、宗教はその矛盾に付き合う。たとえば、仏教では「自己」をよりどころとします。名前というラベルがついている「個人」ではなく、「自己」です。基盤には自己があるというけれども、では、ゲームの中ではどうするのか。AIは、私たちが自己を生きているというこの問題は、ちょっと解決できないんじゃないでしょうか。「出会うところ、すべてが私だ」、「自分が消えたら世界はなくなる」と私たちは言う。しかし実際には、家族が死んだら遺族はお墓を建てますね。矛盾した世界に私たちは生きていて、それにかろうじて答えを与えようとするのが宗教だと、私は思うんですね。

自分が誕生したときに初めて世界があり、私が消えたら世界がなくなるという「自己」の観念は、たぶんAIには理解できないんじゃないかなと思います。AIはある意味公平で、このような「自己」という概念はアルゴリズムには入れられない。しかし、入らないのであれば、私たちが生きているこの神秘、仏教的な表現を使うなら「天地一杯の私」に、アルゴリズムはアクセスできないことになりますね。

私たちはどうしても誕生した時点で、「天地一杯の私」を生きているんです。2、3歳の時点で、妥協しなくちゃいけない。自分の身が一番大事でかわいいけれども、妹も大事だ、お母さんも忙しいということを理解して、妥協し、中学生になると常識があるふりを身につけていきます。けれども、AIには持てない視点を持っている。「この全ての全てだ」という視点ですね。AIだったら数学的に計算して意思決定できるのだろうけれど、我々人間は、トロッコに轢かれそうな人たちを見たら、たとえ「5人」を救うためでも「1人」を簡単に犠牲にすることを躊躇します。これが良くも悪くも「人間」なんですね。


※「トロッコ問題」概要
「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立によるジレンマを扱った倫理学上の課題。付帯条件を追加した複数の設問に答える。第1問の概要は下記の通り。
■状況:線路を走っていたトロッコ(路面電車)の制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が避ける間もなく猛スピードのトロッコに轢かれ、確実に死んでしまう。
■選択:このとき、たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線ではB氏が1人で作業しており、スイッチを切り替えると5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?

インタビューを終えて

長時間にわたるインタビューであり、かつ明確な答えは見つからないという前提の対談であったにもかかわらず、終了時は不思議と疲れやストレスはなく、静かな爽快感が残った。

前月の冒頭で、今まで私が仏教に興味を持てなかった理由の1つに「理解する必要がないから」と書いたが、自分の人生を充実させるためには、理解する必要性はあると十分に感じている。今45歳の私には、まだまだやりたいことがたくさんある。会社の成長や社会的価値の提供、家族・友達との充実した人間関係。やりたいことリストをつくったら100は超えると思う。仏教的にいうと「凡夫のゲーム」にどっぷりはまり山を登っているわけだが、そこから下山することの大切さを知り、意識することができた。まずは、1日数分でも「ゲームを降りる時間」を持ってみることにしよう。
第14話:効率重視のマインドフルネスよりも「凡夫のゲーム」を降りる一瞬にこそ意味がある
取材協力:ネルケ無方(ねるけむほう)さん
1968年ドイツ生まれ。1993年、安泰寺八代目の堂頭である宮浦信雄老師の弟子となり、修行。1995年からは京都の東福寺と小浜の発心寺でもそれぞれ1年間掛搭。1997年、安泰寺に帰山。33歳のとき、独立した禅道場を開くために下山し、大阪城公園で「流転会」と称してホームレス雲水生活を開始。6ヵ月後、師匠の訃報を聞き、山に戻る。現在は大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っており、2011年の『迷える者の禅修行』をはじめ、多くの著書を刊行している。
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