人を育てる行動理論

 「学問のすすめ」の中で、私にとって最も印象に残る文章は、
「一国の暴政は、必ずしも暴君暴吏の所為のみに非ず、その実は人民の無智をもって自ら招く禍なり」である。
 つまり、「国がよろしくない政治を行う原因は国民が無知だからであり、一人の権力者や政治家のせいではない」と福沢諭吉は言っているのだ。
 今の世の報道のスタンスから考えると、かなり衝撃的な一文である。
この一文に限らず、「学問のすすめ」から発せられるメッセージは、「人は自立せよ、学べ」というものだ。
 「一人ひとりが己の足で立ち歩く強さを自力で身に付けなければ、他に翻弄されるのもやむを得ない。それは己の責任である」と。

福沢の行動理論

「人は平等に生まれてはいないが、平等に生きる責任を持っている。責任を果たすには(果)己を磨き、生きる力を身に付ける以外ない(因)。学べ(心得モデル)」
 これが、われわれの知る福沢の行動と実績を創り出した行動理論である。
 彼がどのような経緯でこの行動理論を形成し、この行動理論が何を生み出したのかを考えてみたい。

 一八三五年一月十日、福沢諭吉は現在の大阪で生まれている。強烈な身分制度が色濃く残っている時代。豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の下級藩士であった父親は儒学者でもあったが、出世もできず、福沢の家の生活は決して満ち足りたものではなかったようである。
 当然のごとく、幼少期の暮らしが福沢の行動理論形成に大きな影響を与える原体験となる。「なぜ身分制度があるのだ、なぜ当家は上級ではないのだ、なぜ当家は名誉ある職をなせないのだ…。人は平等ではない。世の仕組みの中であらかじめ在り方は決まってしまうのだ」と。
 一歳で父を亡くすと大分へ戻り、漢学・儒学を学びながら、下級藩士と位置付けられて生きる中で、身分制度に対する疑問がさらに積み重ねられていく。

 一八五八年、黒船来航の衝撃を受けた福沢は、緒方洪庵の適塾に入門。オランダ語などを熱心に学ぶ。
 その姿勢と能力が認められ、藩命により江戸に蘭学塾を開設することとなるが、世界の主流はすでにオランダ語ではなく、英語が中心の社会となっていた。
 世界の現実を知った彼は、英語を学ぶとともに訪米・訪欧を繰り返し、現地の文化や思想に触れて、「国あっての国民」ではなく「国民あっての国」であることを学ぶ。
 同時に、「福沢の家が下級藩士であった(果)のは身分制度のせい(因)」ではなく、「自分たちが己を磨かなかった(因)から、福沢の家は下級藩士であった」ことに気付いたはずである。

 自身の努力によって認められ、自らの使命を果たす場所を勝ち取っていく中で福沢は、「人は平等に生まれてはいないが、平等に生きる責任を持っている。責任を果たすには(果)己を磨き、生きる力を身に付ける以外にない(因)。学べ(心得モデル)」という思想を信念化していった。

福沢の行動

そんな彼から見れば、当時の日本は依存し、もたれ合う弱い者の群れに見えたのではないか。
 福沢は「国に支配され、服従し、依存した日本人のままでは、個々の人生はもちろん、国そのものをなすことはできなくなる」という危機感を感じたであろう。この危機感が彼を突き動かす。

 「西洋事情」の著作、慶応義塾の正式な開塾、「学問のすすめ」の刊行、日刊新聞の「時事新報」の創刊など、次々に行動を起こし、あらゆる活動を通じて新しい日本の在り方を示し続けていく。

 「人は同等であるべきであり、国は同等であるべきである。しかし同等は自然に備わるものではなく、己の努力によってのみ獲得できる」
 「依存せず、己の力で立ち、歩め。全ての人に『体、智慧(ちえ)、欲求、誠実さ、意志』が備わっている。それらを良き方向で発揮するのは己の行動のみである。誰かが発揮させてくれるのでもなければ、環境を整えてくれるのでもない」
 「人の集団である国には、法というものがある。法は中身以上に守ることそのものに意味がある。この法を守るものだけが、法への異議を唱えることができる」
 「生活の安定を求めるのは当然のこと、正々堂々を求めればよい。しかしそれだけで満足してはならない。社会の一員であることを自覚し、社会の発展に尽くせ」
福沢は「一人では生きられない人間の、個人の自立と組織の自立の両立」を強く訴えている。
 主語は「国や組織の長」ではなく、「人」である

 しかし、組織を運営する側の責任についても同時に説いている。
「実現不可能な思想や政治は、国民にとっては迷惑なだけである。完璧な人間などなく、全てのものが賢く優れているのではない。現実を見据えて未来を実現せよ」
 「職務の上下と身分の貴賎は全く別のものである。組織において果たすべきは、職務に伴う責任である。責任を果たすためならば、立場に伴う権限の差があるのは当然のこと。それは差別ではない」

 幕府の瓦解、開国、そして欧米列強と同等の関係を築くという激動の時代において、「強い人」、「強い国」を創るために福沢は奮闘した。

福沢が追い求める人財像

「世の常は変化である。何を信じるのか、その判断力こそが重要である。またどのような行動が必要か、どのような行動をしてはならないか、と制御する上でも、判断力が必要である。学問をなすとは、判断力を養うことである」と福沢は説いている。

 行動だけが先行し、判断力に欠けている者は成果にたどり着かず、理想ばかりで行動が伴わない者は、人を批判し、勝手な空想を押し付けるために協力者が得られない。

 福沢が目指したのは、「自らの頭で判断して行動し、自らの人生を自らの手で創り上げる強さを持った人を創る」ことである。
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