私心なき官僚

 三成に限ったことではないが、歴史上の人物には、相反する風評がある場合が多い。三成の場合、その一つは「秀吉の威を借りた横暴・陰険な小役人」というもの。もう一方は「二君にまみえない類まれな忠臣。卓越した処理能力を持った優れた官僚」というものである。
この章は、いずれが正しいのかを検証することが目的ではない。いずれの説も三成の言動から生まれたものであり、見る人の立場により描かれ方が異なるものを、後の時代の我々が明らかにすることなど、できようもない。
 故に「三成は類まれなる優秀な官僚であった」と仮定して、彼の行動理論を推察してみたい。

 「優れた官僚」に求められるのは、見返りを求めない「無私の奉仕の精神」と、成果を出すまで着実に歩みを止めない地道な努力を支える「執念」である。それが成果を出すための知恵と行動を生み出す。
 三成の行動理論は、まさに優れた官僚の持つそれであった。それは「自分は公器である(観)。故に社会への奉仕のみに全力を注ぐことで(因)己の使命を果たすことができる(果)。私心を捨て他へ尽くせ」というものである。

忠臣「石田三成」

石田治部少輔三成、三献茶のエピソードで知られる彼は、十五(諸説あり)で秀吉に仕え、秀吉に陶酔し豊臣家に忠誠を誓い、六条河原にて処刑される。享年四一歳。
 
 三成が残した言葉で、「奉公人は主君より取物を残すべからず。残すは盗也。つかい過して借銭するは愚人也」というものがある。これは「主君から頂戴したものは、私財ではなく事を為すための資本である(観)。故に政のために使うことが(因)、理にかなうことである(果)。算段を立てて上手に運用せよ」という行動理論を表しているのではないか。
 秀吉は「三成は諫に付いては、我が気色取らず。諸事有る姿を好みし者なり」と評価し、三成を登用したともいわれている。三成の言動は、「たとえ主君に対してさえも意見を述べる際は堂々と述べ、おべっかなどは言わない。厳格に規律を守る」ものだったのである。
 また有名な太閤検地は、三成の考案した「検地尺」がなければ実現しなかった。「測定単位の統一」という、今にしてみれば当たり前になっていることも、三成の頭から生まれ出たアイデアである。
 秀吉が信長の後を継いで天下を平定するまでの戦乱期、三成が果たした軍務上最大の功績は「兵站」である。物資の配給や整備、兵員の衛生、施設の構築や維持など、今で言うロジスティックスである。戦において最も重要なことは、前線が戦い続けられる状況を整えることである。三成はその能力に長けていた。彼自身は「勇猛果敢な武人」ではなかったが、三成のロジスティックスが、秀吉の天下平定を支えたのである。

 三成は、人への無償の奉仕精神の塊であったのであろう。
 先に述べた「主君に対する忠誠」はもちろんのこと、「無償の奉仕精神」はあらゆる対象に対して向けられている。
 検地の働きを認められた三成は三十三万石の領地を与えるという報奨を断った。その理由は「大阪で政を担当する者がいなくなり国政に支障が出る」からである
 また盟友大谷吉継との逸話は有名である。らい病であった大谷は秀吉の茶会では茶碗に口をつけず飲むふりだけをして次の者に碗を回していたが、ある時、膿が茶に落ちてしまった。大谷以降の諸将は茶に口を付けるのを嫌がったが、三成は躊躇せず、茶を飲み干したと言う。この一事がその後の二人の運命を決定付けることになるのである。
 そして、天下分け目の戦いに敗れ逃げ落ちる際、百姓の招きで身を隠したが、三成をかくまった者は親族および村人全員に至るまで処刑するという触れが徳川方から出ていた。この百姓は妻を離縁し、村を出て、処刑を受ける覚悟で三成を保護したのである。しかし百姓の身を案じた三成は自分の居場所を徳川軍へ告げるよう説得した。この百姓が命を賭して三成をかくまったのは、かつて彼の村が飢饉に襲われた際、三成に米百石を分け与えられ、救われたことに対する礼であったという。(他説あり)

武人「石田三成」

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