謀反の奸雄

「世界にこれほど立派なものありと思われず。入りて宮殿を見るに人のつくりたるものと見えず。」とルイス・フロイスの『日本史』に記した多聞山城(奈良県)の城主。
和歌をたしなみ、茶の湯の道でも数多くの名物茶器を所持していた教養人でありながら、信長から「三悪をやってのけた物騒な老人」と家康へ紹介された梟雄。
 茶器「九十九髪茄子」を差し出してまで取り入った信長に背き、信貴山城(奈良県)で名器「平蜘蛛茶釜」と共に爆死した、謀反の奸雄、松永弾正久秀。
 今回はその行動理論を探ってみる。

 久秀の出自は不明である。生まれは阿波、近江あるいは京都の西にある西が岡、あるいは丹波の生まれという説もある。
 久秀の伯祖母である妙精の子政重は藤原氏と姻戚関係を結んだにもかかわらず、「跡継ぎに武士が立つならば母方の松永姓を継ぐように」と遺言を残したことからも、松永氏はかなりの家柄であったことは推察される。

謀反の経緯

天文九(一五四〇)年、三好長慶に仕えたのが端緒であると思われる。
 永禄三(一五六〇)年には興福寺を破って大和一国を統一し、従四位下・弾正少弼に叙位・任官。二年後には名城の誉れ高い多聞山城を築城し移り住んだ。主君である長慶は、二人の弟、そして嫡男の死に相次いで直面し、その勢いがそがれていく一方で、久秀の勢力は増加していく。
 永禄八(一五六五)年の将軍家攻めの翌年、三好三人衆と対立して、松永軍は敗退するが、同年二月に勢力を盛り返して信貴山城に復帰する。そして十月に、三好三人衆の陣である東大寺を奇襲。この時に大仏殿が焼失している。
 永禄十一(一五六八)年九月、信長に降伏。人質と名茶器「九十九髪茄子」を差し出すことで幕府の直臣の座を確保し、大和の平定を進めていくことが許される。
 しかし、徐々に信長包囲網が形成される中、久秀は将軍・足利義昭に通じるのである。
 元亀三(一五七二)年、三好義継と組んで信長に謀反を起こし、十二月末に信長に降伏するも、その五年後には上杉謙信らと呼応して信長に背き、信貴山城に立てこもって対決姿勢を明確にした。
信長は、信貴山城を包囲させ、所有する名器「平蜘蛛茶釜」を差し出せば助命すると命ずるが、久秀は拒絶。これにより、信長のもとに差し出していた二人の孫は処刑される。
 久秀は織田軍の総攻撃が始まると、爆薬によって爆死する。享年六十八歳である。
 下克上が当然という価値観の時代とはいえ、三大梟雄と言われるのも故ないことではないように見える
 そんな彼の行動理論はどんなものだったのか。

三悪を検証する

冒頭の三悪とは「将軍殺害・主君への謀反・奈良の大仏焼き払い」である。
 ではまず、将軍殺害の意図はどこにあるのか。
 殺害された将軍足利義輝は、表向きは三好氏を立てながらも、将軍家の権力復興を願っていた。彼にとって真の敵は三好家であるため、策を持って長慶の弟、実休を死に至らしめた。つまり三好家にとって義輝は実は仇敵なのである。
 軍政の中核であった実休を失い、さらにその二年後には家長である長慶も没すると、三好家三人衆による群議で義輝を放逐する策が練られる。三好家の誰よりも将軍家に近いところにいた久秀は、三好三人衆の策に使われただけなのである。久秀は将軍邸取り囲みの指揮を執らなかったことからも、彼自身は将軍殺害を目的としていなかったことが推察できる。

 では、大仏の焼き払いはどうか。
 三好三人衆と久秀の関係は、長慶の死後どんどん悪化していった。三人衆から久秀討伐の戦いを仕掛けるようになり、奈良の陣で臨界点を迎える。三人衆の軍勢は東大寺を本陣とする。「大和軍記」には「久秀が仕掛けた夜戦で三人衆側が敗北。鉄砲の火薬に火が移り大仏殿炎上」とある。ルイス・フロイスの「日本史」によれば、三人衆側のキリスト教徒兵士による放火という一節もある。
 いずれにせよ、大仏殿消失は久秀の手によるものではないのではないか。
 そして主家への謀反だが、これは戦国の世にあっては特筆することもないお家騒動であると考えられる。  
 主家への謀反といわれる事柄は、三好家嫡男義興の毒殺説、義興の死後における長慶の弟殺害説、長慶の毒殺説などが挙げられるが、どれも証拠が見当たらない。また三好三人衆との対立を主家への謀反とする説もあるが、対立の中三好家当主である義継が久秀を頼って三人衆と戦っていることから見ても、主家への謀反は三人衆の方という見方ができるのではないか?

忠臣 松永久秀

  • 1
  • 2

この記事にリアクションをお願いします!