廃藩不同意の殿様

 明治四(一八七一)年七月十四日、廃藩置県が断行されたその夜、鹿児島では島津久光の命により盛大な花火が打ち上げられた。
 祝うためではない。久光が己のうっぷんを晴らすためだけに打ち上げさせたのである。
 鹿児島県資料の「忠義公史料七巻」にその記録がある。
 島津久光、彼は薩摩藩の藩主ではない。にもかかわらず、大久保一蔵(利通)に御輿を担がれ、己の意に反して倒幕維新に大きな役割を果たすこととなる。
 生涯まげを切らず帯刀し、和装で過ごした。「国父」、「明治政府内閣顧問、左大臣」まで登りつめながらも、高志の者からは「夜郎」などの評された彼の行動理論を推察してみたい。
 久光は自らの人生を己の力では何一つ描くことができなかったようにみえる。
 薩摩藩主島津斉興とお由羅との間に生まれたものの、島津家には「英明は近世第一」と松平慶永から評された長兄斉彬がおり、さらに斉彬には子もある。久光が藩政の中心になることはあり得なかった。
 しかし、母お由羅の画策により、その人生は変化してゆく。

お由羅騒動

芝居を見るかのようなお家騒動の脚本はお由羅によって描かれた。斉興の後継者として長兄斉彬ではなく久光を継がせようと画策したのである。
 お由羅の手が、斉彬の最後の子である虎寿丸に及んだ時、斉彬は薩摩の未来のためお由羅の血につながる者を養嗣子とすることを決断する。
久光の長男に次の藩主の座を約束する旨が伝えられ、お由羅の奸策を知らない久光は素直に喜んだという。

 そして久光の世が来た。すると精忠組の首謀格、大久保が、大志をもって久光に接近する。大久保は志を成すためには権力者に取り入ることを恥とは考えないたちであった。心にもない久光賛辞を久光に伝わるように口にした。
 久光は立場として平侍に会うことはなかったが、「精忠組の者が自分をたたえている」ことをうれしく思い、大久保の名を覚えた。
 「井伊大老を斬るために精忠組立つ」との計画を聞いた時、まともな政治家ならば幕府を恐れ、彼らを弾圧する。しかし、薩摩に生まれ薩摩に育った久光はそれほど幕府を恐れなかった。それどころか近習の者の「わずかな人数で動いても体勢には影響を与えず無駄である。故に止めるべきである。しかしただ止めるだけではなく、彼らが納得する止め方でなければならない」という意見を聞き、彼は思わず「久光がやる。」と発言するのである。
 彼は斉彬の遺言である幕政改革を自分なりの形で実現したいと願っていた。またそれ以上に、事実上の藩主である自分の存在を行動で表現し、知らしめたかった。その想いが言葉を発せさせた。
 「久光が動くということは薩摩藩が動くということである。故に待て」と文書を出し一時その動きを止めた。
 その後も大久保のさまざまな裏工作は続き、気がつけば久光の側近は勤皇派で占められ、久光自身の思想も勤皇化していくのである。
 また大久保から知恵を授けられた小松帯刀が、久光に対し「例格を破り因循姑息な慣習を一掃し人材を抜擢する」ことを提案する。気概を愛する久光は翌年新たな人事を断行し、大久保はたった三年で、平侍から久光の側近となった。
 薩摩の政策的判断を事実上握った大久保は、久光という「コマ」を使い、大軍で上洛し、天皇を擁して倒幕を実現しようと考えていた。
 ちょうどその折、「薩摩は将軍になるつもりではないか」という懸念から、幕府より出府の厳命が下り、藩主ではなく久光が代理で江戸へ行くことになるのである。
 大名が京に上るだけでも最も重い禁制であるのに、幕府に届出もせず軍勢を率いていた。思えば無謀な動きである。

「夜郎」と呼ばれた久光

江戸では、大久保に吹き込まれた天下国家のこととともに、家督相続もしくは官位の任命を希望した。それは息子を追いやり自分を薩摩藩主にするか、もしくは従四位上中将に任命してほしいというものであった。あまりにもばかばかしく、慶喜が「ようするに夜郎」なのであろうと語ったという。「夜郎」とは「田舎者」という意味である。
 そんな彼がこの上洛、東下の間になしえたことが二つある。一つは寺田屋事件、もう一つは生麦事件である。どちらもその後の時流に大きな影響を与えたものであるが、久光自身は、自分の心を満足させるために行っただけである。

久光の行動を支配したもの

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