源平合戦期随一の戦上手

 「日頃は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」
朝日(旭)将軍と呼ばれながらも、不遇不運の生涯を過ごした、源義仲が、最期のときを迎えるにあたり腹心今井四郎兼平に語ったと言われる言葉である。
 それに対して兼平は「それは義仲殿につき従う者がないと思うからこその、臆病によるものです。兼平を千騎とお思いください。兼平が持つ矢があれば、しばらくの時を稼ぐことはできます。あそこに見える粟津の松原。義仲殿はあの松の中へ入り、御自害ください(意訳)」と答え、将たる彼の死に場所を示唆した。
粟津の戦いと呼ばれる最期の戦、追い詰められ、兼平からの進言を受けた義仲は、自害のため、粟津の松原へ向かう。しかし、薄氷の深田に馬脚をとられ、兼平振り返った瞬間に鎌倉軍の石田次郎為久が矢を放ち、「内甲を射」られて、痛手を負い討たれてしまう。
 最後の場面には諸説はあるものの、「非業の死」であることには変わりはない。

 死の瞬間に至るまでの彼の数十日は負け戦の連続であった。
 寿永三(一一八四)年一月、源範頼、義経率いる鎌倉軍美濃入りに慄いた義仲は、自らを征東大将軍に任命させた後、北国への後白河法皇下向を画策、平氏との和睦工作をするものの、間に合わず、開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる数々の暴挙により、一枚岩だった兵はその結束を失って、宇治川や瀬田での戦いで立て続けに惨敗した。
 作家の柘植久慶氏の著書『源平合戦・戦場の教訓 勝者と敗者、何が明暗を分けたのか(PHP文庫)』により、源平合戦期における一番の戦上手と評されている義仲が、なぜ非業の最期を遂げることになったのか、その原因となる行動理論を考えてみたい。

源氏の傍流、源義仲

彼の出生地は、武蔵国大蔵館(埼玉県嵐山町)とも、父義賢が居住していた上野国多胡郡(群馬県多野郡)ともいわれている。
 幼名駒王丸。河内源氏の一門で源義賢の次男である。
 源氏の嫡流は頼朝で、義仲は傍流、というのが一般的な認識であろう。実際に、頼朝の父義朝、義仲の父義賢が兄弟の関係である以上、当然ともいえる。
 が、二人の父である為義に疎まれた長男の義朝は、無冠で東国へ向かわされ、次男の義賢が京で重職に就く。となれば、実は義賢―義仲が源氏の嫡流であったかもしれないのだ。
 しかし義朝は、それを許さなかった。久寿二(一一五五年)年の大蔵合戦で義賢を討ち、嫡流の座を武力により、奪い取った。
 その結果、嫡流と傍流が再度逆転したのである。
 そして大蔵合戦の折、義朝の長男義平から駒王丸暗殺の命を受けた畠山重忠が、内々に駒王丸を斎藤実盛に預けた。彼の手引きで、義仲は木曽まで逃れたと「源平盛衰記」にある。

挙兵の刻と滅びへの序章

時は流れ、治承四(一一八〇)年。以仁王が発した平氏打倒の令旨に応じて、源行家が源氏挙兵に動く。同年九月、義仲はそれらに呼応して兵を興す。北信の源氏方を救援し、そのまま多胡郡のある上野国に入るのである。
 木曾衆・佐久衆・上州衆など三千騎を集結させた翌年六月、越後から攻め込んできた城長茂(じょうながもち)を破り、そのまま越後から北陸道へと進む。まさに源平合戦期随一の戦上手らしい快進撃である。
 しかし、寿永二(一一八三)年ニ月、頼朝が敵とみなした志田義広、源行家を義仲が庇護した事により、頼朝と義仲の関係はねじれていく。
 さらに『平家物語』『源平盛衰記』では、娘を義仲の嫡男義高に嫁がせようとして断られた武田信光がその腹いせに、「義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしている」とざん言したとしている。両者の武力衝突は必須と見られたその直前、嫡子義高を人質として鎌倉に送る事で和議が成立し、頼朝との対立は回避される。
 しかしこれらのすれ違いとねじれの中、義仲の敵は平氏ではなく、頼朝に変わって行った。

大義を失わせたものの正体

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