36協定の新様式案が発表されたり、年休強制付与も来年4月にスタートされるなど、今はそうした変化に対する準備が必要な時だ。何事も現状を変えることは楽ではない一方、私達は物珍しさ、変化が大好き。桜が咲いたといっては花見をし、蛍が出たとなれば夜な夜な出かけ、七夕にはビール片手に夜空を見上げ、紅葉狩りだ、雪見だと日頃から多いに変化を楽しんでいる。一年の締めくくりである晦日には、鐘の音を聞きながら煩悩をリセットし、新年をスタートする。
それもこれも変化が面白いからだが、仕事のこととなると気が重い。そこをさらりと、「一生の分かれ目はここだ」、「覚悟して精進するしかないのだ」と言っているのが世阿弥である。まるで舞うように変化し続けながら生きた世阿弥が残した『花伝書』から、変化に対応するためのヒントを学ぶ。
(※『花伝書』=室町時代末期に編纂された能楽伝書。著者・編者不明とされるが製板本においては著者は世阿弥となっている。)
世阿弥に学ぶ変化への対応

なぜ世阿弥か

世阿弥は、室町時代に活躍した能楽師である。役者・作者・演出家・批評家も兼ね、利休、芭蕉に比すべき天才と言われている。「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」、「初心忘るべからず」などの言葉で有名だ。長らくこの花伝書は秘伝とされていた。相伝は1代1人を原則としたためであろう。現に何百年も世に出ず、、正に秘伝であった。

筆者は20数年前、白洲正子の世界に傾倒した頃、彼女の著書『世阿弥―花と幽玄の世界』でこの書物と出会い、以来、座右の書となった。また、その後、恩師からことあるごとに、(能を稽古していたわけではないが)物事の上達の極意として「稽古は強かれ、情識は無かれ。(稽古は厳しく行え、慢心からの強情はあってはならない、の意)」と口酸っぱく言われたため、世阿弥の存在がその言葉とともに胸に染みついた。『花伝書』は芸能論としてだけでなく、能とは関係のない一般人にとっても、普遍的な教えに満ちている。

働き方改革という大きな変化の中で、大切なものを見失わないよう、古きをたずね新しきを知り、粛々と変わりゆくことが肝心だと考える。そこで今回、私達が迎える大きな変化を前に『花伝書』からそのヒントを探ろうと考えるに至ったのだ。

花であれ

筆者は世阿弥の書いたほんの一部を知るにすぎないが、変化することへの心構えのいくつかを要約し、紹介する。

・「覚悟を決めよ」
『風姿花伝』の第一章「年来稽古条々」の中では、子供の頃からの成長とともに変化していく芸の修練の在り方を書いている。能の習得に関して“一生の分かれ目”となるのは、17,8歳よりとしている。声変わりがする頃だ。この頃の稽古について世阿弥は、「心中には願力を起こして、一期の堺ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬよりほかは、稽古あるべからず。ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし」と言っている。能に限らず、覚悟を決めれば、今どのようにすべきかが分かる。そこで導き出されるのは、長期目標にそった身の処し方である。ただ、がむしゃらに頑張る精神論ではなく、合理的であれ。  

・「花とはなにか」
まず、世阿弥が万事を花に喩えた、その根本の道理をわきまえることが重要だ。「花と面白きとめづらしきと、これ三つは同じ心なり」と。つまり、珍しさによる感動や面白さを呼びおこすのが“花”だと言っているのだ。花は散りゆく、しかし散るからこそ、また咲く頃にその珍しさによる感動を呼び起こし、楽しむことができる。そして世阿弥はこうも言っている。「住するところなきを、まず花と知るべし」と。同じ場所で留まるのではなく、常に変化し続けることが芸(花)の本質である、ということだ。

・「因果応報」
「因果の花を知ること、窮めなるべし。一切みな因果なり」。これは「初心よりの芸能の数々は因なり。能を窮め、名をうることは果なり」と続くが、つまりこれは、稽古がおろそかならば、良い結果はでない、と当たり前のことを言っている。ただし、時の運というものもあるし、隆運発展の男時、衰運停滞の女時があり、努力をしても人間の力のおよばない因果もある。変化を求めても変化できない時があることも知っておくべきだろう。

・「稽古は強かれ、情識は無かれ」
先述しているが、改めて触れる。これは『花伝書』の序文に書かれたもので、「情識」とは自分勝手な思いのこと。 稽古には徹底して強くあるべきで、慢心のための強情・頑固があってはならない、と言っているのだ。しかしこれがなかなか守れぬのが凡人である。強き稽古は、変化にも柔軟と言えるだろう。 

なお、白洲正子はこの序文は最後に書かれたものではないかと言っている。彼女が全文を解き明かし発見したものは、万人に共通なごく普通の常識であった。それを受け、「悟りに悟りは未悟に同じ。至りに至りてついに平凡に達した」と続けている。

――世阿弥は、一生休むことなく歩くような変化をしていった人だ。晩年は不運だったようだが、白洲正子は中国の物語を引き合いにしながら世阿弥の見事な最後を想像しており、それに触れると感動する。幼少時から老人に至るまでの成長について、そして、プロとしての仕事について、困難な時の乗り越え方、リーダーの心得など、この『花伝書』には、人材育成に学ぶことが非常に多い。

昭和の成功に後ろ髪をひかれ続けることは、今後の柔軟な変化を妨げる。そうかと言って、よそから外圧がかかったから、というマイナスな意識で改革を進めることも不本意である。今、時代は、“集団”から“個”の働き方へとシフトしている。今に生きる私達に伝わった世阿弥の貴重な教えを学び、経営者始め、リーダー、個人に至るまで、各々の“花”を持ちたいものである。

参考文献:白洲正子著『世阿弥―花と幽玄の世界』、林望著『すらすら読める風姿花伝』、『日本古典文学大系65』
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