先日、金田一真澄氏の講演を拝聴した。 氏は平成30年に開校予定の長野県立大学の学長予定者である。
山登り、森歩き  - 生涯現役のヒント

「生涯現役」時代への突入

新しい大学の構想、熱い思いにワクワクした。 学生の1年次は全員寮生活を経験する。
自己管理ができる人材づくりの一環である。 自己管理ができないほどのひ弱さではグローバルどころではない、というのが趣旨。
また、地元住民や設立に関わる人々にも、学生の生活をサポートする仕組みが計画されている。

彼は慶應大学を定年退職して地方へ職住を移すに当たり、妻に意見を聴いたところ、即座に“生涯現役”の四文字熟語が書かれた紙を見せられたという。
年金だけじゃ大変だからヨロシクネ、という事か、と笑っていられたが、日本はこの四文字熟語の時代に入ったのである。

就労人口構造の変化により、長い期間働く必要がでてくることは明らかであり、流動性も高くなるであろう。
長時間労働の削減を叫ぶ一方で、年月は人生単位か。年寄りを働かせるな、という声は聞こえてこないが。
若くても、年を重ねても、時々に求められる質のよい仕事を“長期間”アウトプットできることが求められることになる。

働き方を象徴する山登りと森歩きという考え方。

会社で働くことは山登り型が一般的だ。ピラミッド型構造、ヒエラルキーの中で、上へ上へと頂点を目指す働き方である。

一方には森歩き型がある。 地平線を広げる働き方、場合によっては地下深く潜行する。
多様性との調和である。

こと高齢なケースの生涯現役を阻むものは、山登り人生から森歩き人生への柔軟な切り替えの成否である。考え方だ。早いうちから森の歩き方に学ぶことはより豊かな人生の展開が期待できるのではないだろうか。

森について、宮脇昭氏の話に耳を傾けたい。宮脇氏は、鎮守の森を心から大切なもの、世界に誇るふるさと緑、と位置づけている植物生態学の専門家だ。 
著書「鎮守の森」では、
“森の木々達は好き勝手に生きているのかと思いきやそうではない。ほとんどの植物は生理的な最適域から少しずらされ、少し厳しい条件下で、我慢しながら、嫌なやつとも共生している。これがもっとも健全な状態である。

森が多層群落である場合、それぞれ植物が種の能力に応じて発芽、成長、開花、結実と、精いっぱいの力を発揮して健全な生活環を繰り返す。 各植物が競いあいながら共存している。 長い年月を経て、その土地本来の森社会ができる。 安定した終局群落に達する、つまり潜在自然植生が顕在化した森、という。

高い山などは単層群落で極めて不安定で、きわめて高度で集約的な人為的管理で維持しない限り持続できない。

山のてっぺんにいる人間をうらやむことはない。 少し我慢をしいられていると考えている人は、生態学的な最適条件にあることを十分理解し、自信をもって、鎮守の森の中の木や草のごとく精いっぱいに明日に向かって力強く生きていくべきではないか。“と、やさしい一言も添えられている。

私の身近な生涯現役のお手本は、料理の師、T先生。 今年91歳である。 彼女は病弱であったため、人並みの人生のスタートは40半ばからだった。 スープ教室のスタートは71歳からである。  教室、講演、執筆と多忙だ。

生徒達は、“見たこと感じたことをことばで表現すること”、“やったことのデータ、統計を持つこと”、 “本を読むこと”を繰り返し問われる。

先生は膨大な量の本を読み、膨大な量の稽古(料理することを稽古と言われる)をし、データをもち、分類、分析するのである。 何気ないことの積上げを普遍化する。講演も執筆も膨大な量の統計が源泉である。 これは、山登りの時も森歩きの時も、質のよいアウトプットを継続する上でのポイントだ。 統計は実行がなければついてこない。楽譜を知っているだけではピアノは弾けないわね、である。

いわゆる働き方の見直しについては、企業としてルールの見直しありきだが、より環境変化に適応し、生き残っていくためには長いスパンでの働き方の設計の仕方、考え方がこれからの人材育成には必要不可欠だと言える。

山登り、森歩き、善し悪しはない。 しかし、山登りは短く、森歩きは長そうだ。

競いあうことはあっても共生し、戦うことはしない、という森の生き方に、私達が学ぶことは多い。

生涯現役を現実のものとするものは、考え方、志、アウトプットし続ける源泉の豊かさである。


*参考資料
「鎮守の森」 著者:森脇昭/板橋興宗
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