あるラジオ番組を聞いていた。 ゲストはお掃除会社経営者であり、住空間セラピストの古堅純子さんで、自身の片づける仕事を通して考える事、感じたことを話されていた。
数多くの経験から「片づけは“思いやり”なのよ」、との一言を聞いて積年の疑問が氷解した。
片づけの流儀

なぜ、片づけられる人、片づけられない人がいるのか。

この番組では、パーソナリティの女性の家庭に古堅氏が出かけて行った、片づけのbefore/afterが話題になった。女優でもあるパーソナリティは片づけが苦手でちらかり放題。 ほとんどは彼女のもので溢れかえっている。 古堅氏から、「だんなはきっと我慢してるのよ。 あなたの物ばかりで他の家族への思いやりがないわね」と一喝された。 

古堅氏の豊富なデータによると、ちらかっている家庭は夫婦仲が悪いとか、必ず問題があるという。 逆に言えば、<整然として、かつ、夫婦仲が悪い>場合の解決は相当に難問だということか。

この女性パーソナリティの告白では、育った家庭は複雑で家にいたいと思ったことがないと言う。 家庭が安らぎの場であること、居心地をよくする術も知らずに育った、ということで、彼女の明るさ、あけっぴろげの健気さに涙、であった。 出来ないのでなく、やり方を知らない典型だった。

そこに“思いやり”はあるか。

片づけない人、汚して平気な人が残す他人への不快感、次のユーザーのことを考えない、は“思いやり”の欠如で納得がゆくのである。

職場に目をやる。文書管理が行き届いている、私物化の禁止、退社時の机の上には何も置かない、引き出しの抜き打ち検査が入るなど、管理が厳しい企業もあれば、机の上には書類の山、引き出しの中は私物が混在、同じ様子のパソコン、共有のパソコンは用事の済んだフォルダーで画面が埋まっている、机の下には行き場のないファイルが溜まり、床やトイレも今一つ、など時に見かけることもあり、企業風土を物語る。

バブル崩壊後、掃除が経営活性化に効果的であることへの注目が集まり、多くの経営者の共感を得た時がある。 私の知る会計事務所の所長さんも率先して毎朝便器を磨き続けている。 根気、誠実という仕事の基本に立ち返る、気づきの促しという効果が期待できる。

今は、片づけや掃除に“思いやり”が強調される時なのだと思う。 “思いやり”や“やさしさ”には絶対とか、正解はなく、一生問いかけていくテーマである。 見ようとしなければ見えないもの、見えないものがたくさんある、という意識を前提とし、人や物と向きあう、より細やかな対話が求められる時代だからだ。

ファイル一つ片づける時、次の人は使い易いのだろうか、皆で使いやすいのだろうかと意識する。 トイレを出る時、次の人は気持ちよく使えるのだろうか、と意識する。 ルールとマニュアル、フローの徹底である程度の管理は可能になる。 ところが“思いやり”は人間の成熟度を表す行動の一つで、いい年になった人間にトレーニングでは伸び難いところが悩ましい。しかし、この他己意識への視点なしに実のある片づけにはならないだろう。

張り紙に期待はできない。もともと誰でも色眼鏡をかけて世の中を見ているようで、自分のかけている眼鏡の色、濃さ、度数等に気づくことが必要になる。どんなにゴミが溜まっても見えない人には見えない。部下の外見上の変化、受け答えの変化なども、奥さんの洋服や髪型の変化に気づかないタイプには、見えない。見えないことを知ってもらうことがスタートになる。 ついでだが、メンタルヘルス対策のラインレベルの研修には「思考の轍」を意識して頂くことが重要と思われる。

正解がないからこそ“見方・考え方”の教育の場が必要になる所以である。 “思いやり”を考えることは、つまるところ人材育成に行きつくのである。 

職場の片づけ度と思いやりの関係を図式化すると、次のようになる。



思いやり度が高い企業は発見力・感度が高い企業とも言える。

まずは次のユーザーのことを思う、目の前のモノと向き合う。 一つ一つ向き合ことから問いを拡大できれば、いのちとの関わり、遠く離れたかに見える地球環境が自分のこととして考えられるようになる。

たかが片づけ、というなかれ。 
もの言わぬモノの影から、病んでいる声を聴きとることもできる。
聴こうとしなければ、聴こえない。そして聴こえないものは多くある。
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