友人から“あなたはすぐ、自分の陣地へ相手をひっぱりこもうとする”、曰く、相手の話をじっくり聴かない、と言われた。紺屋の白袴か。
せっかちに話の答えを誘導してはいけない。相手は正解を求めているわけではない。
グローバル人材を日常レベルで考える
我が家の食卓に人を招くことは私の最大のもてなしだ。陣地内に来ていただく。食事をともにすることはお互いに親密な関係だという表現である。
 当日も吟味した素材を料理して、よろこんでもらおうと思った。お酒もすすめテンションが上がり、リラックスを通り越すと何か言いたくなる。答えの先取りに切れた。我が行動のあれこれを叱られるに至った。今年はこんな事が2回もあった。あなたのために、と少なからず準備には時間をかけているのだが・・・。馳走をして叱られるとはこれいかに、である。
 当然原因は自分にある、とお叱りは受け入れる。過ぎてはいけない。酒はすすめ過ぎてはいけない。聞け、聴け、頷けだったでしょ。 

 押し売り感を避けるキーワードは“共感”だった。が、会話はずれながら蛇行し、響きあわずに衝突した。酒酔い運転による事故は車に限らないらしい。しばらく人を食事に招くのはやめようと、ぼやいていたら、今道友信という哲学の先生が、「哲学とは魂の世話をすることだ」と言っているのを知り、いい言葉に出会ったと思った。すごくいい言葉だ。この感動的な言葉に出会うための事故かと思ったくらいだ。
人の“こころ”とか“精神”という言葉はずっとしっくりしなかった。この言葉に出会って相手の“魂”と付き合うのだ、と考えると背筋が伸びると同時にやさしくなる自分を発見した。

 グローバル人材の定義は様々だ。一言でいえば、世界中、どこででも生きていける人だと思うが、あえて日常レベルから次の3つをあげる。

(1)食卓をともにして楽しい会話ができること。
 おいしい、は幸せの共感であり、人間関係を親密にする。一方、食は個々人の味覚の蓄積であり、保守的なものである。食事はその人がどう生きてきたかの嘘をつけない場でもある。 
 長い間、外資系企業で働いていた。家庭の食事への招待、ホームパーティ、企業間や大使館でのパーティーなど食事の機会は多く、食を供にすることで各家庭やお国柄を知り、食を介して交流を深める大切さを知った。その国の食を知ることは、その国の生き延びてきた道を知ることでもあり、文字通り味わい、敬意を表することである。
 食卓において、前述のような衝突事故を避ける具体策は、目の前の料理そのものへの関心から始めることが、最も平和な一歩である。料理への無関心は招いてくれた人への無関心だ。作った人への感謝、素材の扱いへの気づかいに関心を示すなどもスマートだ。たとえ、多少口に合わずとも。自国と同じ食材でも調理の仕方の違いに気づいたり、盛り付ける器のこと、部屋の設え等々いくらでも話題は続く。これは日本の茶事でのやりとりでもある。
最後の晩餐で知られるキリストの公生活は食事に始まり食事に終わっていると言ってよいほど食事を大切にしたということも記憶に留めておきたい。

(2)魂と付き合うという感覚を持っていること。
 魂の存在を信じるか否かは個人により違うが、魂に人種や国籍はないはずだ。 人をまるごと捉えられる視点を持つことになる。

(3)自分の家の近くを流れる小川を眺め、その流れが集まり大きな川になり、大海世界に繋がっている、という感覚を持っていること。
 足元から世界を想像できることだ。 足元を深めた時、地平線は広がる。 昨日と今日の川の流れの違いに気づいた時、海は深くなる。

 今後増々海外で働く日本人、日本で働く外国人が多くなると予測される。本当のところグローバル人材という言葉が存在することに違和感を覚える。戦うタフな人物像もあるが、しなやかな人間が強い。
 自分と相手の習慣・文化・思考・行動の違いに抵抗するのか、逃げるのか、かわすのか、戦うのか、興味を持って捉えるのか様々であるが、差異を面白いと思える人間に世界の扉は開いている。
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