ギリシャの債務問題に絡んで、「デフォルト」という言葉が多くの媒体で頻出している。その意味は「債務不履行」なのだが、それがマスメディアでは「国家破綻」という表現になったりする。

最初に押さえておかなければならないのは、国家がデフォルトしたからといって、その国や国民がこの世から消え失せる訳ではないということだ。この点が、企業のデフォルト・破綻とは大きく異なる点だ。企業の場合は、債務超過状態となりその運営が困難になれば解散し、すべてを清算して、まさにこの世からその企業はなくなってしまう。
国家の場合、そういうことはあり得ない。国家には、様々な機能や資産(経済的・歴史的・文化的)があるが、デフォルトというのはそれらの資産のうち金銭的債務が返済不能に陥るということに過ぎないからだ。困難はつきまとうが、考えようによっては債権者の負担で新たに再生する途が拓かれるとも言える。
例えば、旧ソ連からロシアへの再生がそれなりにスムーズにいったのもデフォルトのお陰とも言えよう。デフォルトがなかったら、今日のロシアは無かったかもしれない。
借りるが勝ち?

デフォルトは債務者が決める!

日本人の感覚からすれば、「そうは言っても債務者が債権者に借金を返済するのは世間の常識ではないか、債務不履行など許されるべきではない。」という結論になりがちだ。しかし、その見方は一方的すぎるかもしれない。つまり、大方の日本人には倹約癖が染みつき、多額の貯蓄があるため、どうしても債権者目線で物事を考えてしまいがちなのだ。美徳と言えば美徳だが。

ただ、金銭に関しては、この世はお金を貸す者と借りる者で成り立っていることを改めて認識すべきだ。世界でデフォルトに直面している国々を見渡せば、ギリシャをはじめほとんどの国が過剰消費国で、国外から借金している国だ。
アメリカを例にとると。連邦政府の借金は、その半分が世界各国に対するもので、日本と中国が債権者のトップを争っている。政治や経済のリーダーたちはどうすれば対外的借金ができるかを常に考え、実践している国だ。

1971年のニクソンショックによる金本位制の廃止・変動相場制への移行など、その最たる例だ。アメリカは仮にデフォルトしても、その債務額すべてがアメリカ国民の負担になる訳ではない。借金の半分は自国以外の世界の人々に肩代わりしてもらえばいいだけだ。
そもそもデフォルトしたからといって何もかもすべてが失われることはない。あくまで金銭的な清算をするかしないかだけの問題にすぎない。アメリカ建国以来積み上げてきた技術やノウハウ、軍事的資産など残るものは残るのだ。もし、アメリカ国債の連帯保証として軍事機密情報が付与されていたり、国土の一部が担保に入れられていたりしたら、確かに極めて大きな問題になる。しかし、国債のファイナンスにそのような契約条項はない。

デフォルトで何が辛いかといえば、それは通貨が暴落するから海外からモノが自由に買えなくなることかも知れない。しかし、アメリカという国は、ほぼ自国ですべてを調達できる国だ。負債の半分を帳消しにしてもらい自国の再生を図れる恵まれた国である。

国家のデフォルトとは、一からやり直すための方策であり、始まりの始まりなのだ。企業のデフォルトとは訳が違う。今まで抱えてきた莫大な金銭債務をきれいに水に流す行為であり、まさに債務国にとっては再生するための第一歩なのだ。
債権者目線からは、損をしたくない気持ちが前面に出るから、債務不履行など決して許されるべきでないと思ってしまう。特に我々のように貯蓄を礼賛され、借金は悪だ、との作られた文化を持ち、債務者目線で物事を考えることに慣れていない国民にとっては、「まさかデフォルトすることはないだろう。」という「お人よし」の発想しか出てこない。
しかし、デフォルトするかしないか、を決めるのは最終的には債務者だ。債権者が決める訳ではない。このことをしっかり理解しておくべきだ。

歴史の教訓!

歴史を紐解けば、日本も国家破綻を経験している。正確にはデフォルトではないかもしれないが。日本は、昭和20年の敗戦時多額の負債を抱えていた。一説には2,600億円(現在価値で400~500兆円)とも言われている。この戦時国債を中心とした借金を減らすため、日銀は紙幣を刷りまくり、政府は「新円切替」「財産税課税」「10年間の預金封鎖」を実施した。あっという間に戦時国債や預貯金は「紙クズ」になってしまった。

1,000万円が2万円程の実質価値になったとも言われている。つまり、債権者たる国民の資産が国家から適法に収奪されてしまったのだ。権力者にとって、国民をコントロールすることなど朝飯前。安保法制に関連して、憲法学者が「立憲主義」の尊重を強調するのは、このような権力者の暴走を抑止する必要があるからだ。

世界のスタンダードや歴史は、我々に大切な教訓を授けてくれる。何事においても、事の本質を捉え、その本質から状況を判断すべきだという教えだ。大きな変革の時代であればあるほど盲目的に世の定説を信じ込む行動は愚行となろう。
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