★前回までのあらすじ
増加の一途をたどる、うつ病の社員に対して、何から手をつけていいのか、悩む春代にお構いなく、業務はどんどん増えていき・・・。

このコラムは、人事部で働く人々にインタビューし、メンタルヘルス対策にかける思いを中心に、その人生の一端を「物語」仕立てにしたものです。(※文中の名称はすべて仮名です)
~人事課長・春代の物語「社員全員を船に乗せ」第3話~

早朝、魚市場へ

父にまつわる一番古い記憶は、父が熱心に包丁の手入れをする後ろ姿である。
春代の実家は町の小さな魚屋だ。父が仕入れた新鮮な魚を、父と母が協力して刺身にしたり、切り身にしたりする。母の手で調理されたアジフライは商店街の名物と言っていいほど人気で、夕方6時にはいつも売り切れてしまう。買えなかった地元の主婦たちの悔しそうな声が、店の奥の部屋で宿題をしている小さな春代の耳にまで、よく聞こえてきたものだ。
「いい魚屋は、包丁とまな板の手入れを、何よりも大事にするもんだ。」というのが父の口癖だったから、一心に包丁を研ぐ父の後ろ姿が、今でも特に脳裏に焼き付いているのかもしれない。春代は夕暮れの柔らかい光に包まれた、父の後ろ姿が好きだった。

「お父さーん!行くわよー!」店先から奥に声をかける。
「朝っぱらから大声出すんじゃねぇ!」春代より大きな声で父が怒鳴り返してくる。その片手には杖。傍らにはさりげなく母が寄り添っている。

父は3ヶ月前、濡れた店の床で滑って転倒し、足首を骨折してしまった。すぐに治療をしたし、持ち前の根性でリハビリもこなし、今では杖があれば歩けるまでに回復をしている。が、車の運転ができなくなってしまった。アクセルがまだ踏めないのだ。母はそもそも運転免許を持っていない。そこで、父と母を毎朝市場まで送る役目が春代にまわってきた。朝4時半に実家へ着き、5時までに市場へ行く。父と母の仕入れを待って、6時半にまた実家へ送り届け、そこから自宅へ帰って出勤の準備。そんな生活を1ヶ月以上続けていた。

「春代、申し訳ないわねぇ・・・。お母さん、若いときにあんなに嫌がらずに、車の免許、とっとくんだった。こんなことになるとわかっていればねぇ・・・。春代も忙しいのに、本当に申し訳ないわ。」
母は毎朝、車の中で延々と同じことを言う。
「大丈夫よ。気にしないでったら。でもずっとは無理だからね。お父さん、お医者さんの言う通り、完治するまでは無理をしないでよね。焦って無理をしたら、余計に長引くんだから。」
春代は言いながら、なんだかメンタルヘルス不調で休職している社員にも同じようなことを言っているな、とチラリと思う。
「言われんでもわかってる。」プイと横を向く父だが、内心は母以上に申し訳なく思っているのだ。それを素直に口に出せないから、余計にぶっきらぼうな態度になる。「魚屋が魚屋の店先で転ぶなんて、情けねぇ・・・。」そうつぶやいているのを、母が聞いてもいる。昔から不器用な父を、春代はやはり好きなのだった。

市場の駐車場で車の窓を開けると、早朝の切れるような冷たい空気とともに、潮と魚の慣れ親しんだにおいが流れ込んできた。

職場にて、ついに

「風吹くーん、明日の経営会議に出す資料だけどさ、全事業所の平均残業時間の報告のページ、これ、まずくない?社長から前月、残業時間削減徹底のお達しが出たじゃない?なのに、前月より軒並み増えているからさぁ、これ、社長に見せられないよ。」
人事部長が弱り切った顔で春代に資料を指し示す。春代が作成した資料だ。

「まずいと言われましても、事実なので。」
春代の切り返しに、「いやいやいや。」と、人事部長がさらに困って眉を下げる。
「残業時間削減の施策の成果が出てから、報告することにするとかさ。なんかそんな説明にとどめておいたら。」
「社長のお達しが出たのに、報告事項に挙げないことのほうが、おそらくまずいですよ。それに、そんな施策、まだ何も打っていないじゃありませんか。」
「だからそれは、風吹くんが早く考えてよ。」
「川崎工場をはじめ、特に問題のある事業所について、人員増員案、人材配置見直し案、業務フロー見直しプランを、以前から提出しているはずですが。」
「ああ、あれね。そうね、あれをちゃんと考えてみなくちゃね。」
「特に川崎は即刻手を打ちたいので、お早目にお目通しとご判断をお願いします。」
前々から、何度もお願いしておりますけれども!という一言は、なんとか飲み込んだ。

「とにかく、このページ、残業時間を載せるのはいいからさ、先月は残業が避けられなかったという理由を、一緒に書いておいて。増えている事業所については、全部ね。よろしくね。」
そう言い放ち、人事部長はすぐに他の資料に目を通しているふりをする。春代は無言で一礼をして、席に戻った。

痛むこめかみをもみながら、資料の修正に取り掛かろうとすると、今度は採用担当の部下から声をかけられる。
「課長、今度、新卒採用のホームページにアップする原稿です。明日、広報に投げなきゃならないんで、今日中にチェックしてもらえますか?」
「チェックはするけど、今日中にやらなきゃならないなら、もっと早く持ってきなさい。相手に依頼するのに、短納期は失礼なことよ。」
「でも、たいした分量じゃないですし・・・。」
「たいした分量じゃなくても、相手は他の仕事も抱えているのよ。時間を割けるかわからないリスクを想定しておきなさい。」
「はーい・・・すみませんでした。」

謝って去る部下の顔は、明らかに不満顔だ。指導せずに受け取ったほうが、春代としても本当は楽なのだが・・・。思わずため息をつきそうになったとき、内線が入る。営業部門の課長からだ。
「風吹課長、お忙しいところすみません。実は、部下のことで、至急相談に乗っていただきたいことがありまして。電話ではアレなので、今日、どこかでお時間とっていただけませんか。」
1時間後にミーティングをする約束をして、電話を切る。それを待っていたかのように、部下の奈々子が椅子を寄せてきた。顔を寄せ、耳元でささやくように報告してくる。
「課長、先月復職した真田さん、今週、1日も出社していないようですよ。その前の週も、その前も、来たのは3日くらいだったそうです。」
復職判定会議での、産業医の御園とのやりとりを思い出し、「やはり・・・。」という思いがよぎる。

「わかったわ。今週のうちに、真田さんの上司とのミーティングをセットして。」
「わかりました。」奈々子が心得顔でうなづく。
次にまた誰かに話しかけられる前にお手洗いに・・・と思って立ち上がった瞬間、グラリと体が傾いた。普段あまり見ることのない天井が視界に入り、すぐに暗転した。無意識に手をついたのか、椅子が倒れる派手な音がする。「課長?課長!?」慌てる奈々子の声がスーッと遠くなっていった。
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