このコラムは、人事部で働く人々にインタビューし、メンタルヘルス対策にかける思いを中心に、その人生の一端を「物語」仕立てにしたものです。(※文中の名称はすべて仮名です)
~人事課長・春代の物語「社員全員を船に乗せ」第1話~

人事課長の頭痛の種

役員フロアの床は大理石が張られている。そのせいでいつも、自分のヒールの踵の音が、カツカツと妙に頭に響く。今日は部下の奈々子が寄り添うように歩きながら近くで話すものだから、さらに頭が痛い。

「課長、なんで役員たちにハッキリ言ってくれないんですか!このままじゃマズいですよ。みんな限界ですよ!」
シースルーエレベーターの前で止まりながら、春代は奈々子の肩に手を置いた。
「言いたいことはわかってる。策を考える。時間をちょうだい」
奈々子がわずかに口を尖らせながら、黙った。奈々子はそんな仕草が似合うまだ20代の部下だが、信頼している。正義感が強くて真っ直ぐな性格が好ましい。

春代が人事部に配属されて、20年近くがたとうとしている。20年前、まだ新人だった頃の春代が少しでも口など尖らそうものなら、労働基準監督署のオヤジたちから、一斉に野次が飛んだものだ。
「お嬢さん、可愛らしい顔して何しに来たの?」
「早くおうちに帰って料理でもしたら?こんなところにいたら行き遅れるよ~」
当時は男女雇用機会均等法もまだ社会の意識の中には浸透しておらず、三六協定を提出しても、「女性がこんなに働けるわけないじゃない」と鼻で笑われた。若い女性が人事として労基署に出入りすることも相当珍しかったようだ。実際、総合職採用された同期の女性は次々と退職し、「やはり女性はあてにならん」という風潮が社内にもあった。

「男性と同じように、いや、それ以上に働かなくては認められない!」そう思って、ずっとやってきた。
(あのオヤジたち、まだ元気なのかしら……)
下降するエレベーターの中でそんなことをふと考えていたら、奈々子に軽く腕をつかまれた。
「ちょっと課長……大丈夫ですか?なんか、最近疲れていません?」
「疲れもするでしょう~、あの役員たち相手にしてたら」
わざといたずらっぽく笑って見せ、奈々子を安心させる。

川崎の工場に人が圧倒的に足りない。社員の平均残業時間は月60時間を優に超え、管理職は連日泊まり込んでいる状況。そこで人事部として増員案を作成して役員に提出したが、今、却下されたところだ。

「無駄を減らして生産性を上げることを考えるのが先だって言うけど、その前に誰かつぶれますって。現に今だって……」
奈々子はまた眉をキリリと吊り上げて熱弁をふるいはじめた。

その言葉ひとつひとつにうなずくが、うなずくたび、頭にツキーンッという痛みが走った。いつもの片頭痛だ。痛みを顔に出さないことにかなりの神経を使った。

役員の本音のところは、そんな正論ではない。
川崎工場を増員するということは、他本部から人を出すということだ。どの本部も余裕があるわけではない。
事業本部ごとの独立採算制をとる春代の会社では、「ヒト・モノ・カネ」の調達は、担当役員の力とニアイコールになる。自分のところの「ヒト」を削って川崎を助けようという、度量のある役員がいなかっただけのことだ。

そのような情報をまだ若い奈々子の耳に入れることのメリットとデメリットを、春代は痛む頭の中で算段していた。

宗太郎のカレー

「ママ、おそ~~い!」
小学校からとっくに帰っていた宗太郎が、キッチンでカレー鍋をかきまわしながら文句を言った。
4年生になったら、急にしっかりしてきた宗太郎は、帰りの遅い春代に代わって、最近夕飯まで作ってくれるようになった。夫の帰りはさらに遅いので、だいたい2人で食べることになる。
「宗ちゃん、ごめん~~!」
スーツを慌ただしくハンガーにかけながら謝ると、
「もういいかげん、宗ちゃんて呼ぶなよな」
宗太郎は最近おなじみのセリフを口にしながら、まだプンスカしている。自分だってまだママって呼ぶくせに……とは口にせず、春代は手を洗ってテーブルについた。
野菜が不ぞろいでゴロゴロ大きいカレーが、お皿で湯気を上げている。いっちょ前にサラダ付きだ。薄いトマトと分厚いキュウリを見て、疲れが一気に抜けていくような、幸せな気持ちになった。

「ママ!ママ!カレー食べながら寝ないでよ!」
宗太郎の心配そうな声が遠くで聞こえる。お風呂に入って目を覚ましたら、川崎工場増員案の練り直しだな……と、春代は半分飛んだ意識の中で考えていた。
  • 1

この記事にリアクションをお願いします!