戦国の世に生まれ、織田信長の妹、浅井長政の妻、茶々・初・江の母であった。彼女が生き延びたからこそ、秀頼も生まれ、家光も世に存在し、徳川の世の土台が築かれた。

戦国随一の美女として名高いお市の方(当時の呼称は小谷の方)である。
時代に翻弄される中で、どのような行動理論が彼女を動かしたのか、今回は、お市の方について考えてみたい。

1547年、織田信秀の娘として彼女は生を受けた。兄である信長とは13歳程の年の差があったと思われる。そのこともあってか信長は、お市にとっては兄というより、家長のような大きな存在であった。

お市は1568年、近江の国浅井郡の小谷城主で当時23歳の浅井長政と結婚する。
織田家が浅井家との同盟を結ぶ上での政略結婚であることは戦国の世としては自然の理であるが、2人の仲は睦まじく、茶々・初・江という3人の娘達にも恵まれ、平穏で幸せな日々を過ごしていたようである。

とはいえ、世は戦国である。突然信長が浅井家との約定を違え、越前の朝倉家を攻めた事により、お市は世の流れに翻弄されることとなる。

長年の朝倉家との同盟を重視した浅井家は、1570年信長から離反する。ついには姉川の戦いにまで発展し、1573年浅井長政は自害。享年29歳であった。
お市は共に自害する決意を示すが、夫長政に「浅井の血を守って欲しい」と説得され、娘達と共に、夫を死に追いやった兄信長のいる織田家に帰る事となるのである。

兄との対立から、落城、夫の自害に至るまでの約3年間、お市は織田家ではなく、浅井家の人間として生きた。
とはいえ、夫が兄信長に勝ちを収め、兄が亡くなることを望んでいたわけではない。戦である以上、一方が勝てば一方は負け、戦国における負けは即、死を意味することは十分に分かっている。妻であり、妹であるお市が揺れないはずはない。
もし長政が勝ち、兄信長が落ち延びたとしても、平和的和解があり得ないことも分かっていたはずである。
いずれが勝っても悲運の道以外ない中で、長政と共に行く道を選んだ。  
その背景には、「自分は浅井長政の妻である(観)。浅井の人間である以上、浅井を第一に考えるのは(因)当然のつとめ(果)。長政に誠意を尽くす(心得モデル)」という信念があったに違いない。

信長は、長政の長兄「万福丸」は処刑、次男「万寿丸」には出家を命じるも、お市と3人の娘は清洲城にて寛大な庇護を与え、9年余りを過ごさせたという。
信長にしてみれば、義弟長政と実の妹お市の一連の行動は自分に対する裏切りであることには違いなく、浅井方に対する彼の怒りは計り知れない。
同時にお市の方も、自身の子ではないとはいえ、長政の長兄の処刑などを含め、夫長政を攻め滅ぼした兄信長への恨みは、彼女の中で終生消えることはなかったに違いない。
いずれ織田家にとって有益と思われる家に嫁がされるであろうことも、覚悟していたであろう。

しかしそれでもなお、お市の心の中にあるのは、浅井の血を伝えていくことのみであった。
彼女が夫の死後、出家をしなかったのも、そのためだと推察される。
それらの決断の奥にあるのは、「自分は浅井長政の妻である(観)。浅井の人間である以上、浅井を第一に考えるのは(因)当然のつとめ(果)。長政に誠意を尽くす(心得モデル)」の信念以外にない。

1582年、再びお市の運命は、大きく揺れ動く。明智光秀による本能寺の変で信長が自害するのである。
信長の後継者を決めるべき清洲会議で、信長の孫である三法師丸を推す秀吉と、信長の三男信雄を推す柴田勝家が対立する。
お市の方が勝家に嫁ぐことで、勝家の不満を抑えて、秀吉が推す三法師丸の相続が認められることとなる。
長政と死別後も出家せず、織田家重臣筆頭の柴田勝家に嫁いだのは、自分と3人の娘の保護者は死してなお信長であり、後世に浅井の血統を残すための判断であった。
彼女の信念はあらゆる心情をも凌駕したのであろう。
1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は秀吉に敗北、お市の方は城に火を放った勝家と共に自害する。

しかし秀吉方に引き取られた茶々・初・江は、歴史上でいずれも、重要な役割を果していく。
茶々は秀吉の側室になり、初は京極高次に嫁ぎ、大坂の陣では交渉役として奔走。江は後々、徳川秀忠の正室となり3代将軍家光を生んでいる。
お市の方の信念は、自身の死後成就するのである。
 37歳の死であった。
法号「自性院微妙浄法大姉」。
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