民を憂う行動理論

 長岡市東神田にある栄涼寺。ここには、かつて彼の墓石に鞭を加えにくるものが絶えなかったという。戦で命を落とした者たちの遺族たちである。さらには、墓碑が何者かの手で打ち砕かれた。
 「十七天ニ誓ツテ、輔国ニ擬ス」という詩を詠み、幕末の越後長岡藩を率いて官軍と戦い、図らずも藩滅亡への道を歩むこととなった、河合継之助。その号を蒼竜窟という。
陽明学の影響を受けたであろう。河井には「学問とは自分の実践力を高めるものである」という信念があった。
 陽明学においては、知ることと行動することは同じことであり、己が命を、いかに世を救うための一個の道具として扱うかということを追い求める。
 河井自身は、國を、民を豊かにするために己が命はあると思い、その力を養うがために学んだ。
 そもそも、自分が官軍と戦うことになろうとはつゆとも考えていなかったはずである。
 しかし、彼は結果として戦う道を選び、滅びの道を歩んだように見える。
その原因となる、行動理論を推察してみたい。

 文政十(一八二七)年、越後長岡藩士河井家の長男として生まれた彼には、激しい気性と頑固な性格がうかがえる。
 武芸を学んでも、師匠の作法や流儀に従わず、「馬は駆ければ事足りる」、「剣は切るだけで役に立つ」と口答えして、厄介払いされるほどであった。
 一方、学問では藩校の崇徳館で儒学を学び、陽明学に触れる。
 
 嘉永六(一八五三)年に続き、安政六(一八五九)年に二度目の江戸遊学で古賀謹一郎の家塾である久敬舎に入った後、経世済民の学を修めるために備中松山藩山田方谷を訪ね、方谷が進めた藩政改革の成果を見て、さらに深く傾倒していく。
 慶応元(一八六五)年、彼は外様吟味役に就き、郡奉行、町奉行と出世した河井は長岡藩の藩政改革に着手。農政改革、灌漑工事、兵制改革などを次々と実施した。
 河井は見事な行政手腕を発揮して、傾いた藩の財政を立て直し、慶応三(一八六七)年の春、石高七万四千石の長岡藩の藩庫には、九万九千九百六十余両という余剰金があったという。
 國が豊かになり、民が楽になる。まさに河井が磨いてきた、経世済民のための実践力が発揮されたのである。

経世済民と武装中立

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