我は一個の機械なりや
 大村益次郎とは何者なのだろうか?西郷隆盛のような影響力はなく、吉田松陰のごとき求心力もない。大久保利通の持つ政治力は皆無と言ってよい。
 多少、同時代人と異なっているのは、恐ろしいほどの目的意識の高い技術者だった点であるように思う。
 その徹底した合理主義が自らの、使命を果たさせ、使命完遂と同時に時代の表舞台からその姿を消すことになる。
  大村が持つ行動理論、それは「自分は世直しのための機械である(観)。故に、国の憂いをなくすための力を磨き行使することで、自らの使命を果たすことが出来る(因果理論)。戦略を立案する技術者に徹せよ(心得モデル)というものであろう。

 大村益次郎(一八二五~六九)は、幕末期の長州藩鋳銭司村に生まれ、他藩、幕府を経て母藩である長州藩に召抱えられる。村医から一転、討幕軍の総司令官となり、日本の近代兵制の創始者となった。
 維新の表舞台に彗星のように現れてから、軍師としての活躍はわずか三年余りである。
 しかしながら、木戸孝允は《維新は癸丑(嘉永六年)以来、無数の屍の上にでき立った。しかしながら最後に出てきた一人の大村がもし出なかったとすれば、おそらく成就は難しかったに違いない》(『花神』司馬遼太郎 新潮文庫)と語っている。
 大村の言動、成し遂げたことの考察を通じて、彼を動かしめた行動理論を探ってみたい。

奇妙な人

  とにかく「奇妙な人間」だったようである。通常の挨拶が成り立たない。妻の琴が「もう日が暮れましたよ」と言えば、「日は暮れるものだ」、村人が「先生、お暑うございます」と挨拶をすれば「暑中はこんなです」としか応えない。とにかく、心を通わせるコミュニケーションというものに、ほとんど価値を感じていなかったようにも思われる。

 上野における彰義隊討伐戦では、薩摩郡との合議がある。大村の立案した作戦は、弁才のある寺島宗則に任せたが、薩摩の作戦参謀海江田武次の反論に対して大村は「あなたは戦を知らぬのだ」と一蹴した。たしかに、戦そのものは大村の作戦通りに進むのであるが、一軍の作戦参謀に対しての発言としては暴言であり、失言であろう。それが後々大村自身の命を縮めることにつながるのであるから。
 推察するに大村の中には「会話とは目的を達成させるための手段でしかない」というコミュニケーション観があるようにみえる。

人は使命を果たすための存在である

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