中原 淳 著
東京大学出版会 3,150円

著者は冒頭で「本書は「経営学習論(Management Learning)」という学際的研究領域を扱う学術書である」と宣言している。そして経営学習論は「“企業・組織に関係する人々の学習”を取り扱う学際的研究の総称」であると定義している。
経営学習論 人材育成を科学する
経営学習論の学問的出自は極めて新しく、研究の蓄積は十分ではなく、学問的状況は混沌としている。にもかかわらず著者は「本書の目的はその『全体像』を描き出すことにある」と断じている。野心的な試みだ。

 その試みは成功したか? 成功していると思う。わたしは読み進みながら知的興奮を覚えた。書かれていることの一つひとつは既知のものだが、著者が取り上げる事例と見解を読み進み、ばらばらだった知識が有機的に再構成されていくことに快感を覚えた。この興奮や快感は、素粒子や宇宙創生に関する科学書を読むときの感覚に似ている。

 内容は知的好奇心を刺激するが、読みやすい本ではない。心理学、哲学、社会学などと無縁だった人はコンテキスト、弁証法的止揚、接面などの用語に戸惑いを覚えるかもしれない。
 読んで理解するには社会人としての経験も必要だ。20代の人は、文章の意味がわかったとしても、腑に落ちず、納得できないのではないかと思う。
 本書を推奨したいのは、30代以上の人事経験者だ。人材育成に携わった人にとっては、目から鱗の発見があると思う。
 注意しておくが、本書を速読しようとしても無理だと思う。用語が厳密に定義されているので、疑問が浮かぶたびに何度も読み返す必要がある。

 使われている用語は日常的によく使う言葉が多い。経営、学習、経験、職場はだれでも知っている。ところがこれらの言葉の意味は、わたしたちの理解と少し異なっている。
 もっとも重要な用語は「学習」だ。ところで「学習」という言葉で何を想起するだろうか? たぶん小中高の授業ではないだろうか? TOEICのための英語学習をイメージする人もいるだろう。学習とは「個人が頭の中に知識を蓄積すること」と理解している人は圧倒的に多い。

 本書で言う学習とは、「個人の行動・思考の変化」「個人とそれを取り囲む他者との関係の変化」「個人の属する組織の変化」を指している。学習とは知識の「伝達」ではなく、個人と個人の周囲にあるものの「変容」なのだ。
 しかしわたしたちは「学習とは知識蓄積」と擦り込まれているので、文章の意味を間違って理解してしまうことがある。わたしが何度も読み返さざるを得なかったのは、著者の定義を確認しながら読んだからだ。

 本書は経営学習論の全体像を描出するために、5つの理論的視座を使っている。(1)組織社会化、(2)経験学習、(3)職場学習も(4)組織再社会化、(5)越境学習の5つだ。
 それぞれの詳細については本書を読んでもらいたい。言葉の意味だけを紹介しておこう。

(1)組織社会化とは「組織に新規参入時に、組織で仕事をするのに必要となるような知識・技能・信念を獲得させ、組織適応を果たすプロセス」だ。わかりやすく言えば、新入社員が入社して組織に馴染んでいくプロセスだ。

(2)経験学習とは、「業務経験を積み重ね、それを内省し、出来事をスキーマ化することで熟練を果たすこと」と定義されている。言葉がややこしいので、わかりやすく書き直せば、個人が仕事での経験を振り返り、他の状況でも応用可能な知識やルールを見いだして成長するプロセスを指している。

(3)職場学習とは、「職場において、人が、仕事に従事し経験を深めるなかで、他者、人工物との相互作用によって生起する学習」のこと。伝統的にはOJTとOFF-JTは別々の人材開発施策と考えられてきたが、著者は効果的に配列・連携させることを提唱している。この意見は斬新だ。

(4)組織再社会化とは、「前職場組織を去った個人が、新組織の一員となるために、新組織の規範・価値・行動様式を受け入れ、職務遂行に必要な技能を獲得し、新組織に適応していく過程」のこと。転職者が新会社に馴染んでいくプロセスと理解すればいい。

(5)越境学習とは、「個人が所属する企業・組織の境界を越えた場所で、個人が現在および将来の仕事に関連した内容を学習・内省すること」だ。著者は社外勉強会、情報交換会などを指して越境学習の例としているが、もしかするとfacebookのようなメディアでも越境学習できる可能性がある。

 読むのに時間がかかる本であり、文意を正確に把握するのに頭を使う。読みやすく編集されているビジネス本とは一線を画す難読本だが、わかる人は著者の指摘に共感できるだろう。
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