八木 洋介、金井 壽宏 著
光文社新書 798円

タイトル「戦略人事のビジョン」からは、難解そうなイメージが付きまとう。しかし本書の中身は観念過剰なものではなく、わかりやすい。そして魅力的だ。
 書物を表わす言葉に「巻を措(お)く能(あた)わず」というものがあり、一度読み出したらやめられない本を形容する時に使う。
戦略人事のビジョン 制度で縛るな、ストーリーを語れ
本書も読み出したら読書を中断できないほどおもしろい。寝る前に読み出さない方がいい。夢中になって読み進み、睡眠不足になるかもしれない。

 まず著者を紹介しておこう。金井壽宏氏をご存じの人は多いはずだ。組織変革、リーダーシップ、キャリアに関する多数の著作を持つ神戸大学教授だ。
 八木洋介氏は企業人であり、本書がおそらく初の著作だ。略歴をかいつまんで紹介すると、京都大学を卒業後にNKKに入社し19年間在籍し人事など歴任。途中でMITに留学している。1999年にGE横河メディカルシステムに人事部門長として入社し、日本GEのHRリーダーを務めた。そして今年4月に住生活(LIXIL)グループ執行役副社長に就任している。
 本書は八木氏に対して金井氏がロングインタビューを行い、そのインタビューを基に編集者とライターが一本にまとめたものだ。したがって本書のメインの語り部は八木氏である。本書は5章で構成されており、八木氏が章ごとに「ですます」文体で語った後、金井教授が「だである」文体で解説している。

 第一章「人事は何のためにあるのか」で八木氏は自分の経歴に触れながら、日本の人事部門が閉鎖的な(閉鎖的に見える)理由を説明している。人事部門がオープンでない理由は、人事施策の戦略性を欠いているからだ。定期異動や人事考課にも戦略性がなく、年功序列のしきたりが残っている、と説いている。確かにそういう企業は多いだろう。
 八木氏はこういう人事マネジメントを「継続性のマネジメント」と呼んでいる。歴史的継続性を重視して前例踏襲を優先し、権限をたてに制度やマニュアルを固守しようとするマネジメントだ。見ているものは過去である。
 八木氏が追求してきたのは「戦略性のマネジメント」。見ているものは現在。勝つための戦略を立て、企業内の機能に一貫性を持って反映させる。気を付けなければならないのは、戦略は外部環境の変化によってしばしば変わるということだ。その変化に合わせ、企業内の各部門はダイナミックに動かなければならない。きわめてわかりやすい説明だと思う。

 八木氏は、多くの日本企業で実施されている制度を槍玉に挙げる。通勤手当や家族手当も俎上に載せられている。私も当たり前の制度だと思ってきたが、あらためて根拠を考えてみると、たぶん惰性で続いている手当なのだと思う。平等ではないし、社員のパフォーマンスを向上させているとも思えない。「継続性のマネジメント」を象徴しているのがこれらの手当だ。
 「戦略性のマネジメント」の発想に立つ人事は、社員のやる気を最大化し、生産性を上げる。八木氏は「人間ほど生産性が向上する経営資源はない」と断言している。確かに人がやる気を出せば生産性は5倍にも10倍にもなるだろうし、やる気が無くなればゼロになるかもしれない。
 ビジネス本で語られる言葉は、ともすれば同語反復して不明確なことが多いが、八木氏は明晰。一つひとつを自分の経験と絡めて説明するので、一読して納得できる。こんな人事本は珍しい。

 本書を読み終えて思い出したのはプラグマティズムだ。19世紀末のアメリカで生まれた思潮で、哲学者パース、心理学者ジェームズ、教育学者デューイが代表的な学者だ。実用主義、行為主義と訳されることもあるが、わたしの理解では、言葉と行動が一致する(させる)ことだ。
 八木氏の人事に対する態度はきわめてプラグマティックで、言葉が遊離せず、必ず行動がある。
 たとえばGE横河メディカルシステムに人事部門長として入社した時、最初に始めたのは朝の挨拶だった。最初の2週間、定時の30分前に出社し、玄関前で社員と挨拶したと言う。1人だけではない。社長とその直属の部下も巻き込み、八木氏と同じように挨拶してもらったそうだ。このような上に対するリーダーシップも組織改革では重要だ。
 人事で組織を変えたいと思っている人にとって、参考になる考え方と行動がたくさん書かれている。

 近年の人事の課題として、戦略人事、ビジョン、リーダー、マネジメント、グローバル人材などが挙げられるが、その実現に必要なプラクティスをこれほど明快に述べた本はこれまでなかった。また八木氏の文章を補完する金井氏の文章も上質で品格がある。
 人事だけでなく、経営者やマネージャーにも有益だし、若手が働く意味の理解を深めることができるだろう。一読を強くすすめたい。
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