海老原嗣生/荻野進介 著
中公新書ラクレ 924円

 読むのに時間がかかり、多くを学ぶ本である。文章が難解だから時間がかかるわけではない。海老原氏と荻野氏の文章は、言葉を注意深く選んでおり、一つひとつの文章は読みやすい。時間がかかるのは内容が濃いからだ。
 戦後日本は70年近い歴史を持つが、その間の経営課題と人事課題に対し、どのような制度を取り入れて解決したか。あるいは解決しようとしたか。そしていったんは定着した思想や制度がなぜ破綻したのか。なぜ古い制度を引きずったのか。
 その時代にタイムスリップして、同時代感覚で課題を共有して読み進むことができる。そして本書の読み味は、推理小説に似ており、読者の思考回路を刺激する。
名著で読み解く 日本人はどのように仕事をしてきたか
本書はタイトルに「名著で読み解く」と書かれているように、13冊の歴史的名著を取り上げている。名著の解説ではない。名著が書かれた時代背景を解説し、名著の主張の妥当性を検証している。
 それだけならそれほど驚くべき事ではないかもしれないが、本書は13冊の名著を書いた著者に質問状を出し、著者からの回答を得て、質問と回答をあわせて掲載している。こんな形式の単行本を読むのははじめてだ。本書では成功しているが、稀有な形式だ。

 本書では「章」の代わりに「Vol.」が使われている。Vol.1では1958年に出版された「日本の経営」(ジェームス・アペグレン著)が取り上げられている。「日本的経営」を論じる際に枕詞として使われる三種の神器がある。終身雇用、年功序列、企業別組合だ。この三種の神器を発見し、世に広めたのが「日本の経営」だった。
 もっとも海老原氏によれば、「日本の経営」の執筆にあたってアペグレン氏が調査したのは、当時の総労働人口のせいぜい5%程度に過ぎない超大手企業。圧倒的に多い中小企業の労働者は無視されているそうだ。実態を反映していない。
 実態を反映していないのに名著に選んだ理由について、海老原氏は「構築」という言葉で説明している。「構築」とは社会学の用語。「今まで誰も気づいていなかったことを、誰かが明確な言葉で指摘することにより、それが社会の常識になり、社会が本当にその方向に変わっていく」のが「構築」。その意味で「日本の経営」は、戦後最大の「構築」だった。そして終身雇用、年功序列、企業別組合を軸にした人事制度が広まっていく。

 人事の世界では、「~~主義」という言葉が多い。労働者の報酬に関わる考え方と制度に関わる用語に多い。Vol.2「欧米型vs日本型『人で給与が決まる』仕組みの正当化」では、欧米型の職務主義と日本型能力主義についての考察が試みられている。
 この項で海老原氏は興味深い比喩を用いて、欧米と日本の考え方の違いを説明している。内容を簡単に説明しよう。
 --ある語学教室があったとする。この語学教室は、英語とドイツ語を教えている。講師Aさんは英語しか話せないアメリカ人。講師Bさんは英語とドイツ語ができるアメリカ人。さてどちらの時給が高いでしょうか?--
 たぶん多くの日本人は、英語とドイツ語ができるBさんだと思うだろう。ところがよく考えてみると、同じ時間に両方を教えることはできない。講師の能力や教養に違いがあっても、同じ仕事をしているのなら同じ給料。これが欧米型の職務主義だ。能力で評価されないから、転職でよりよい報酬を得ようとする。
 日本では給料は能力で決まる。だから英語とドイツ語ができるBさんの給与が高くなる。能力が上がれば給料も上がるから、転職せずに一生懸命に働き、スキルアップを図るというわけだ。
 注意したいのは、能力主義は実力主義ではないことだ。また職務主義も職階職務とは異なる意味で使われている。

 本書は戦後史とリンクしており、日本がとてつもなく若い国家だった時期に高度成長を遂げ、安定成長期に入り、ゼロ成長に至る歴史がよくわかる。為替レートの変化、学歴構成の変化、競合他国の発展度合いなどが企業経営に大きな影響を及ぼしており、底流には少子高齢化という解けない課題がある。
 海老原氏が70年近い歴史をまとめている。「1940年代の暴風雨と50年代の地固めで階級的疲労感をうまく取り除き、60~70年代には用意周到な準備で日本型協調に花を咲かせた」。「80年代にバブルに浮かれた企業は全く無策であり、90年代前半は警鐘を無視して弥縫策で済ませ、結果、90年代後半には何でも手当たり次第に導入するといった狼狽状態に陥った」。「そんな停滞と曲折を経てだいぶ新しい働き方への胎動が始まったのが現在」。

 現在の日本企業は多くの人事課題を抱えているが、現在から見える情報だけで課題を解こうとしても難しいと思う。歴史の流れを把握して未来を構想すべきだと思う。その視点を獲得するのに本書は大いに役に立つ。
 海老原氏の著書は、人材、雇用に関する世間の常識を鉈で叩き割るようなロジックで粉砕するものか多い。しかし本書の文体は異なっており、研究者の文章だ。
 人事の世界では、同じ言葉が人によって異なる意味で使われることがあるが、そういう点にも目配りがなされており、コンピテンシーについてはとくに詳細な記述がある。
 新書だが、一気に読み通す人は少ないだろう。数日かけて読み、読み終えてまた読み返す。本書はそんな本である。
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