「大将の要害は徳にあり。徳あるところ、天下これに帰す」
大谷吉継の言葉であるとされる。

戦国の世の武将であり豊臣秀吉の家臣、越前敦賀城主であった彼の号は白頭。目を患っていた彼が常に白頭巾をかぶっていたことによるともいわれている。通称、大谷刑部。
彼は、関ヶ原の戦いで盟友石田三成を支える西軍の将として戦い、敗れ自刃する。
「友情」という概念がなかったとされるこの時代、吉継が三成に対して持っているものは、それでもやはり「友情」であったのではないか。
第27回 大谷刑部

友誼の将「大谷吉継」

吉継は三成とは違い、家康を「いずれ天下を治める人物」と見ていたようである。
1590年の小田原征伐時、駿府城に立ち寄ろうとする秀吉を三成は制止した。「家康の謀略があるかも知れない」という考えからである。この時吉継は「そのようなことをする方ではない」と入城を勧めたという
また1598年、秀吉が死去すると吉継は、家康に接近した。
前田利家による徳川邸襲撃を耳にした際には家康警護にまで参じている。

吉継の友誼

1600年、家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いがあると主張、上杉討伐軍を起こした。吉継は数千の兵を率いて敦賀を出立。
途中石田三成がいる佐和山城へと立ち寄り、三成の嫡男重家を従軍させようとする。吉継は石田家の人間を加わらせることで、三成と家康の仲を取り持とうと考えたのである。
しかしそこで三成から、「家康に対し軍を起こす志」があることをうちあけられることとなる。
吉継には、三成に徳はなく家康にはその徳があることがわかっていた。それゆえ吉継は「無謀である、三成に勝機はない」と数回にわたって説得を試みる。しかし三成の意志は固く、説得に応じることはなかった。
到底勝ち目がある戦ではない。そう吉継は見ていたが、彼は三成を支えるため西軍に与した。

吉継の目は、やはり正しく未来をとらえていた。
東西合わせて20万ともいわれる戦国時代最大の戦はわずか半日で決する。
三成は味方を創ることかなわず、多くの裏切りにより敗れ、結果として家康が天下を治めることへのきっかけを生み出すことなった。
そして吉継も、この戦いの中で生き延びることはせず、自らその命を絶つのである。

友誼を支える行動理論

吉継の優れた才知は、味方の裏切りも三成の負けも家康が天下を治めることも映していた。にもかかわらず、何が吉継を動かしたのか?

それは、「徳あるところ(因)、天下これに帰す(果)。徳とは才知ではない、敬愛である(観)。徳を持って事を為せ(心得モデル)」という行動理論である。
徳を第一とする吉継の目に、「三成は徳に欠ける人物」と、そして「家康は徳に長ける人物」と映っていた。ゆえに彼は、全身全霊を持って三成を説得しようとした。「三成は利によって人を動かす才知は長けているが、戦さにおいて人を動かすのは徳であり、この点において家康に遥かに及ばない」とまで言っている。

しかしまた同時に、吉継は己にも徳を第一とすることを課した。三成は病を患う自分を受け入れてくれた唯一の友である。その友の志を変えることがかなわない以上、その志を支えることが徳に値する行動である。また、自分が西軍に与したところで徳川の勝ちは揺るがない。それほどまでに家康の徳は勝っている。天下を治めるべき人物が定まっているならば、自分は友を支える徳を第一とする、と考えるのである。

大谷家の家紋はもともと「鷹の羽」であったが、豊臣秀吉が関白に任命された時期から「対い蝶」へ変えている。しかし関ヶ原の戦いでは、鷹の羽の家紋で戦っている。鎌倉の世から使われるようになったといわれる鷹の羽には、「勇猛にふるまう」の意が込められているという。才知ではなく、徳で動くことを決意した証、あるいは自らへの鼓舞であったのかもしれない。

またこの徳を第一とする行動理論は「人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん」という言葉も吐き出させている。西軍を裏切った小早川秀秋の徳のない行為に対するものだ。

「契りあらば、六の巷に待てしばし、おくれ先立つ事はありとも」

これは別れの挨拶として送られてきた同志の「名のために棄つる命は、惜しからじ、終にとまらぬ浮世と思へば」への返句であるとされる。

徳を第一とするからこそ、同志から命を預けられ、友に命をかける吉継の人生がうかがえる。
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