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「働くこと」基礎概念講座6-3 ~「成功」志向から「意味」志向へ

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2014年12月15日

「結果とプロセス」どちらが大事か[下]

 

「ずっと若い頃の私は
百日の労苦は一日の成功のためにあるという考えに傾いていた。
近年の私の考えかたは、年とともにそれと反対の方向に傾いてきた」
───湯川秀樹

 

◆ほんとうの「自己実現」は利他の精神を含む
人には欲望がある。「こうしたい」「ああなりたい」「あれがほしい・これを手に入れたい」───こうした欲望のエネルギーは、わたしたちを突き動かす。人の欲望にあらかじめ「よいもの」「わるいもの」というラベルが貼ってあるわけではない。欲望は、人を育てもするし、惑わしもする、また壊しもする。

若いころの欲は、往々にして、「具体的で功利的な結果」を求め、「自己に閉じがち」である。しかし、その人が“よく成熟化”していくと、欲の性質が変わっていくように思える。つまり、「意味の感じられるプロセス」を求め、「他者に開いていく」心持ちになっていく。
ただし、この変化は “よく成熟化”した人間が得られるのであって、年齢とともによく成熟化ができないと、依然、欲は結果に拘泥し、自己に閉じたまま、いやむしろ、それが強まりさえしてしまう。

私自身、決してよく成熟化しているとは言えない凡夫なのであるが、個人的に振り返ってみるに、やはり20代、30代の欲は、功名心や野心めいたものの力が強かったように思う。メーカーで商品開発を担当し、次に出版社に転職をして雑誌の編集をやったが、「ヒット商品を当てて世間を騒がせたい」「スゴイ記事を書いて世の中を驚かせたい」と鼻息は荒かった。そのためにいつも自分が担当した商品や記事の販売数や閲読率という数字に執着していた。成功者になりたいというエネルギーは、多分に自己顕示欲を満たしたい、自己優越感に浸りたいといった感情を連れ添っていた。

また、「自己実現」という言葉が流行ったときでもあり、「そうだ、すべてはジコジツゲンのためだ!」とストレスと疲労が溜まっても自分にモチベーションを与えて頑張っていた。が、いま考えると、その自己実現は「利己実現」ではなかったかと恥ずかしくなる。ちなみに、「自己実現」という概念を日本で流布させた心理学者のアブラハム・マズローは、『欲求5段階説』の最上位に置く「自己実現欲求」を「最善の自分になる」ことを目指すとし、そこに道徳性や社会性など利他精神をきちんと含ませている。

そんな青く利己に尖った自分にとって、年を重ねるとはありがたや、時間は不思議な影響を人間に与えてくるものである。私は41歳でサラリーマンを辞め、教育事業で独立をした。その理由は、一つには“消費されない仕事”をしたい。消費されない仕事とは、人をつくる仕事だと思うようになったこと。そしてもう一つは、「大きな目的のために自分を使いたい」と心持ちが変化したことだ。

◆「結果とプロセス」をめぐる賢人たちの言葉
私は子供のころから身体が丈夫なほうではない。大病こそせずに済んでいるが、いつも身体のことを気にかけなければならない。すぐに寝込んでしまうのだ。もし私が、昭和以前に生まれていたなら、この生物的に弱いつくりの個体は、とっくに何かで死んでいただろう。医療が発達し、物質が豊かで、衛生環境もよい現代の日本に生を受けたからこそ、ようやく私は人並みに働くことができ、生きている。私は40歳になったとき、「40以上の寿命は天からの授かりものと思って、今後はもっと世のため人のためにこのアタマとカラダを使いたい」と思った。

そういえば、聖路加国際病院理事長の日野原重明先生が、あの1970年「よど号ハイジャック事件」に乗客として遭遇し、無事解放されたときに、「これからの人生は与えられた人生だから、人のために身をささげようと決心した」と語ったエピソードは有名である。そしてまさに、先生はそうされている。

さて、この記事で私が何を言いたいかというと、

 1)心の成熟化に伴って、「成功」志向は弱まっていき、「意味」志向になる
 2)つまり、成功という「功利的結果」を手にするよりも、意味のもとに自分が生きている/生かされている「プロセス」に喜びを感じるようになる
 3)とはいえ、若いうちは大いに成功を目指し、結果を出すことを習慣づけるべき

そのあたりのことを、賢人たちの言葉から補ってみたい。

  ○「人間の値打ちとは、外部から成功者と呼ばれるか呼ばれないかには関係ないものです。むしろ、成功者などと呼ばれない方が、どれだけ本当に人生の成功への近道であるかわかりません。
  だれが釈迦やキリストを成功者だとか、不成功者だとかという呼び方で評価するでしょうか。現代でも、たとえばガンジーやシュバイツァーを成功者とか、失敗者とかいういい方で評価するでしょうか。世俗的な成功の夢に疑惑をもつ人でなければ、本当に人類のために役立つ人にはなれないと思います」。
  ───大原総一郎(『大原総一郎~へこたれない理想主義者』井上太郎著より) 

  ○「ずっと若い頃の私は百日の労苦は一日の成功のためにあるという考えに傾いていた。近年の私の考えかたは、年とともにそれと反対の方向に傾いてきた」「無駄に終わってしまったように見える努力のくりかえしのほうが、たまにしか訪れない決定的瞬間よりずっと深い大きな意味を持つ場合があるのではないか」。
  ───湯川秀樹(『目に見えないもの』講談社学術文庫あとがきより)

このお二人の無私で透明感のある言葉を、ようやく私は咀嚼できるようになってきた。しかし、仕事上で20代、30代の若い世代に「仕事観」を醸成する研修を行っている私は、こうした賢人の達観を伝えるとともに、次のメッセージも届けなければならないと感じている。それは、

  「勝ち負けは関係ないという人は、たぶん負けたのだろう」。
  ───マルチナ・ナブラチロワ(テニスプレイヤー)

母国チェコスロバキアを逃れてアメリカに亡命し、70~80年代に黄金の歴史を築いた女子プロテニス界最強の一人が言うのだから、実にすごみのある言葉である。

そう、やはり、勝つという結果にはこだわるべきなのだ。特に若いうちは、野心でも利己心でも、ギラギラと何かを獲得しようと動き、もがいたほうがいいのだ。最初から結果を求めず、「私はプロセス重視派です」なんていうのは、実際のところ、怠慢か逃避の言い訳である。そういう姿勢は、結局、先の二人(大原と湯川)の言った「成功を考えないこと・プロセスが実は大事であること」の深い次元での理解からも遠くなる。

逆に、若いうちに成功を求め、結果を追った者ほど、ある人生の段階に入ったときに、二人の言葉がふっと心に入りやすくなる。なぜなら、欲は、よいものもわるいものも、利己的なものも利他的なものも、“ひとつながり”だからだ。欲の質は縁(きっかけ)に触れて変わる。仏教はそれを「煩悩即菩提」と教えている。

◆結果や成功を超越したところに幸福はある
「結果」と「プロセス」を語るとき、そして「成功」について語るとき、そこに忘れてはならないワードは、「目的」である(目的は“意味”と置き換えてもよい)。何のための結果を追い求めているのか、何のための成功を欲しがっているのか───それが「開いた意味」に根ざしているなら、やがて結果も成功も心の中心から外れていくだろう。代わって、意味を満たすプロセスに身を置くことが幸福感として真ん中に据わってくる。しかもそれは持続的である。結果や成功を得ることが、ある種、一時的な興奮・高揚であるのとは対照的である。

要は、動くことなのだろう。動くことからすべてが起こる。動くほどに、ものが見えてくる。動くほどに、同じような志で動いている人と結び付く。そしてその人たちの影響を受けて、さらにものが見えてくる。さらに動こうという欲求が起こってくる。おおいなる意味のもとに動いている───そのこと自体が、ほかでもない“幸福”ということではないか。幸福は「静的な快楽の状態」ではなく、「動的な志向の状態」のものだ。

結果を出せたから幸せで、結果が出せなかったから不幸ということではない。成功が善で、不成功(失敗)が悪ということでもない。結果や成功を超越して、自分の見出した意味に生きる、そのように泰然自若と構えられるというのが、働く・生きるうえで、もっとも成熟した姿であるように思う。そしてまた、「最善の自分」へとがっちり進んでいるときなのだろう。

 

〈合わせて読みたいグループ記事〉
○6-1:「結果とプロセス」どちらが大事か[上]
○6-2:「結果とプロセス」どちらが大事か[中]~富士山の上に太陽を昇らせよ
○6-3:「結果とプロセス」どちらが大事か[下]~「成功」志向から「意味」志向へ

 

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