Vol.09

HR総研 先端人事研究「2020 人事新潮流」

「今、なぜ『キャリア権』なのか」 組織と個の関係性の変化の中で、双方にメリットをもたらす羅針盤

法政大学 名誉教授/日本テレワーク協会アドバイザー 諏訪康雄氏

キャリア権はユートピアではない

寺澤私はこの業界に入ったばかりの頃に先生とお会いして、初めてキャリア権について知り、興味を持ち始めました。ところがその後、人事の領域に詳しいある方と話した際に、「キャリア権なんて主張されたら、経営や人事は堪らない。従業員が勝手に自分のキャリアの権利を主張したら、経営、人事は成り立たない。ユートピア的な考え方だ」と言われました。

諏訪そもそもキャリア権は、人事と対立するための道具ではありません。むしろ経営や人事に多くのメリットをもたらします。日本は欧米と比べると、従業員エンゲージメントが低く、仕事に対して受け身の人が多いと言われていますが、これは昨日今日に生まれた気運ではなく、実は高度成長時代から見られるものでした。日本では雇用こそ保証されど、キャリアの途中段階でその人の得意不得意や希望も聞き入れずに、一方的に異動させることが少なくありません。そのような経緯で与えられた業務は他人事でしかなく、やがてモラール・ダウンを招きます。もちろんやる気がなければ、生産性も落ちるでしょう。このように自立性を欠いた受け身の姿勢では、イノベーションを生み出すことや、変化の激しい時代を乗り切ることはできません。こうしたことからも従業員の自立的なキャリア形成が経営にとっていかに重要かがわかると思います。

企業は運命共同体から「プロジェクトチーム」へ

寺澤これまで多くの日本の経営者は、どんなことがあっても従業員のクビは切らない、雇用を維持することこそが経営責任であると考えてきました。そういった意味では、親として非常にモラルがあったとも言えます。しかしそれは、子供たちに対して長期的な雇用とそれにもとづく生活設計を約束することができたからこそ可能だったわけです。高度成長期では経営の目標を達成するためには、これまでの親子主義のやり方がある種の必勝パターンだったかもしれませんが、時代は移り変わり、勝つための戦略も変わってきました。そうした中、従業員にキャリアを自律的に選択させることは、経営戦略上、非常に重要になってきていると感じます。

諏訪日本型の雇用慣行が揺らいでいる最大の原因は、やはり人手不足です。労働の供給側のバーゲニング・パワーが上がり、働き手のさまざまな思いに配慮をしないと思うように人材が採れなくなる、あるいは採ったとしてもリテンション(人材保持)ができません。したがってこれからの企業は徐々に、従来のような親子関係という一種の「運命共同体」から、プロフェッショナルで構成される「プロジェクトチーム」のような形に変わっていくと思います。個々のキャリア形成を促しつつ、内部に然るべき人材がいなければ、外部からも調達し、最強のメンバーを集めて、切磋琢磨しながら付加価値の高いサービスを提供していく。そんなチーム型の最先端を走っているのが、GAFAのような企業でしょう。こうした企業では人の出入りも激しく、一つのプロジェクトが終わると別の会社に移り、また新たなプロジェクトが発足すると再招集されるようなケースも少なくありません。またそうなると、働く側も自分を守らないといけませんから、より一層、自己研鑽や人脈づくりに励むわけです。

「人事権」×「キャリア権」でキャリアを作る

寺澤今後、企業側・働く側双方は、キャリア権をどのように活用し、またキャリア形成やキャリア支援をどのように進めていけばよいのでしょうか?

諏訪若いうちは、キャリアと言われても、あまりピンとこない人もたくさんいると思います。したがってキャリアの初期段階では人事権が前に出て、企業がしっかり教育訓練をしながら、基本的な能力を身につけさせる必要があるでしょう。そして30代半ばくらいになったら、今度は個々人が持つキャリアデザインを尊重し、学習支援などを徹底することです。日本では40代半ばくらいから昇進から外れるなどして、モラール・ダウンする人が増えていきます。そうなる前に当人のやる気を起こすことが重要です。また、海外での調査によると、一つの仕事を習熟するまでの期間は、平均で11年から12年くらいで、そこから先はゆっくり下降していくと言われています。よって企業は、例えば22歳で入社した人が34〜35歳になって自分の習熟の一つの水準に達したとき、そのスキルがそれ以上落ちないように支援してあげることも大切です。

寺澤30代半ばから40代にかけてが、自律的なキャリア形成のターニングポイントになりそうですね。

諏訪おっしゃる通りです。OECDが実施した「大人の学力調査」によると、大人の学力は25歳〜29歳をピークに少しずつ落ち始め、とりわけ55歳以降に落ち込みの程度が高くなっていきます。しかしそれでも、日本でも調査国全体でも人の60〜65歳はピーク時水準の約9割を維持しているそうです。ということは、健康管理を徹底し、年齢を重ねても威張らず、円滑な人間関係を築ける人であれば、かなりの能力を発揮できるはずです。しかも知的能力を9割も維持しているわけですから、逆算すると、25〜29歳の人が100時間かけて身につけるものなら、111時間くらいかければ身につく計算になります。ちなみにその際にポイントとなるのはアンラーニング(学習棄却)です。今までの慣行や経験をいったん脇に置いて、新たなものにチャレンジしていくという前向きな姿勢がないといけません。日本でチャレンジ精神というと、若い人の話のように聞こえますが、本来チャレンジ精神を持たなければいけないのは40代半ば以降、さらに50代、60代の人たちなのです。

Win-Winの関係を目指し、すり合わせを

寺澤つい、「人事権」対「キャリア権」という構図で考えてしまいがちですが、ある程度の年齢までは人事権を優先し、会社がしっかり育成する必要があるということですね。そして30代半ば以降は、個々にキャリアのオーナーシップを持たせて、自律的なキャリア形成を支援していく人事の運営を心掛けると。一方の働く側も、会社にぶら下がり続けて最後に嘆くことのないように、できるだけ早い時期から必要に応じて学習棄却をしながら、新しいことにどんどんチャレンジしなければならない。キャリア権は、まさにそのための重要な基盤になると感じました。

諏訪個々人のキャリアを尊重するというのは、決して人事権をなくすことでも、組織を解体することでもありません。ある程度の年齢に達したら、一人前として組織に貢献してもらい、それに対して組織の側も、然るべく支援などをしていくことを実効的にする考え方だと思います。仮に人事権とキャリア権が対等な関係にあったとしても、そこで必要なのはすり合わせることです。人事権があるからといって、あまりにも不人情なことはできないでしょうし、キャリア権があるからといって、組織の要員計画等に反してまで自分の意向を押し付けることもできないでしょう。重要なのは、Win-Winの関係になること。そのためには、一方的に権利を主張し合うのではなく、納得できるまでしっかりすり合わせて、個人と企業が同じ方向に進む必要があると思います。

法政大学 名誉教授 /日本テレワーク協会アドバイザー
諏訪 康雄氏

1970年に一橋大学法学部卒業後、ボローニャ大学(イタリア政府給費留学生)、東京大学大学院博士課程(単位取得退学)、ニュー・サウス・ウェールズ大学客員研究員(豪州)、ボローニャ大学客員教授、トレント大学客員教授、法政大学大学院政策創造研究科教授、厚生労働省・労働政策審議会会長等を経て、2013年から法政大学名誉教授。主な著書に『雇用政策とキャリア権』(弘文堂・単著)、『雇用と法』(放送大学教育振興会・単著)、『労使コミュニケーションと法』(日本労働研究機構・単著)、『労使紛争の処理』(日本労使関係研究協会・単著)、『外資系企業の人事管理』(日本労働研究機構・共著)など。