嚥下しやすい食事が顎の発達を妨げるように、毎回かみ砕かれた「わかりやすさ」ばかり求めていると、知性は発達しない。わからないことに対する頭脳戦、知的格闘技こそが人を鍛えるというのは確かである。

しかし、実務やビジネス、対お客様への「わかりにくさ」は厳禁である。
適切な情報を正確に相手へ伝え、理解・納得してもらうことが前提だからだ。情報やサービスに足らない点があったら、ご自身で考えてみてください、ご自身で補ってください、ではサービスが成立しないであろう。もちろん、何から何まで全部提供できる、充足させるサービスは存在しない。その人自身で対処しなければならない点は多々ある。
相手が安心できる「わかりやすさ」

「わかりやすさ」の追求はやめてはいけない

それでも、「使っていただく/使っていただきたいサービス」を提案する際に、相手に分かりやすく情報を伝えるのが<説明>というものだろう。その「わかりやすい説明」のために、真っ先に思いめぐらせないといけないのは、相手の持つ知識の量と質である。

私はスマートフォンを持っていないし、使っていない。使用しているのは、いわゆるガラ携である。しかも、利用するのはFacebookとブラウザ閲覧のみである。音楽を聴くのには、iPod touchをWiMAXで使っているだけだ。そのため、スマートフォンには疎い方である。そんなスマートフォン初心者に向けて、機能や便利さを説明するときには、図や表を多用して説明するのが道理であろう。専門用語を使われても、おそらく10%も理解できまい。

もし、トラブルの発生原因や解決方法が「わかりにくい」説明な場合、お客様は非常に困ってしまう。そして、その商品やサービスから離れていくだろう。どんな仕事でも業界でも、多かれ少なかれ誰もがこのような「わかりにくい」説明を体験し、困ったことがあるはずだ。やはり、「わかりやすさ」の追求はやめてはいけないのである。

ノーベル物理学者である湯川秀樹は、「中間子はセメダインのようなもの。そのセメダインが原子と原子をつなげている」と語ったそうである。物理学という難解な学問を少しでもわかりやすく伝えよう、翻訳しようとする姿勢は学ばなければならないだろう。そのような姿勢は、顧客満足にも不可欠である。

最近、頭で満足した顧客よりも、心で満足した顧客の方が優良顧客になるという話を聴いた。しかし、それは、頭で満足していただくこと自体が無駄という意味ではない。まずは、論理的に分かりやすく説明させていただき、納得していただくことが必要だろう。それが前提での心の満足だ。

「わかりやすさ」には、さじ加減の利いた敬語力が必要である

しかし、「わかりやすさ」にも課題はある。
当然ながら、説明は丁寧にさせていただくが、それは、一歩間違えると慇懃無礼になりかねない点である。

いわゆるさじ加減の利いた敬語力が求められるのである。距離感を適切に保つと言ってもいいだろう。社会人として敬語をしっかり使いこなすことはとても大切だが、いつまでも敬語だと「水臭い奴」とも思われてしまう。敬語を使うより「いかに使わないようにするか」こそが本当の意味で難しいのである。

どのタイミングで敬語をくだけた言葉に変えていくかは、感性によるだろう。また、持って生まれたキャラクター性にもよるだろう。これが正解!という模範解答は存在しないため、非常に難しい。

敬語とは潤滑油であり、慮りである。
距離感を調整し、調律師のようにチューニングするのに欠かせないのである。あんまり馬鹿丁寧な説明では、距離感ばかりにとらわれ、ジャブだけしか出さないボクシングのようになり、面白くないだ。相手も苦痛になってくるはずだ。距離を詰めるため、自分という枠を突き破って相手のテリトリーに入っていくのだ。ダメージを受けるリスクもあるが、KO劇が生まれる可能性も出てくる。
「馴れ馴れしくならず、かと言って卑下しない」「慇懃無礼でなく、傲慢不遜でもない」など強弱、濃淡をつけてこそ、相手も安心できるのである。


アーネスト・ハート
社会保険労務士 竹内 元宏

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