宗教対立はなぜ起こるのか

稲垣 今回、いろいろな宗教を深く信じる方々にインタビューをしています。幸運にも私がインタビューさせていただいた方は、それぞれの宗教の本質を追及されており、ネルケさんをはじめ、素晴らしい人格者ばかりで、改めて信仰をもつことの豊かさを実感しています。しかし、なぜそんな素晴らしい信仰をきっかけに争いが起こってしまうのでしょうか。

ネルケ 仏教にもいろいろなとらえ方がありますが、私が考える仏教という視点からですと、一神教も多宗教も間違ってはいません。真実はひとつ。「今、このありのまま」ということです。簡単にいえば「ありのままのこれ」。今ここに現われていることを、普段は自分の色眼鏡を通してしか見ていないけれども、その色眼鏡を取ったとき、つまり、自分の損得勘定や勝ち負けとは関係なく眺めたときに見えるものが、「現実」かつ「真実」です。ところが、ほとんどの人はその意味を理解しようとする前に、「今、このありのまま」が阿弥陀さんの話になったり、サンタクロースの話になったり、真言宗なら大日さん、日蓮宗なら妙法蓮華経の話になったりして、そこに名前や顔がついてしまうんですね。そうすると理解しやすくなるのは確かだと思います。「善行をしていれば阿弥陀さんが救ってくれる」、「いい子には、クリスマスにサンタさんがプレゼントを持って来てくれる」、「死んだら最後の審判を経て、地獄か天国が待っている」といったように、「正しくすれば神様が絶対助けてくれる」といったお話の方が理解しやすい点はいいのです。けれども、本来なら名前のつけようのない「今、このありのまま」に名前がついてしまうことによって、「あなたが信じる神様は、私の信じる神様と名前が違うじゃないか!」という事態が起きてしまうんですね。ラベルが違うからという理由で、相手が信じている真実を間違いだと否定してしまう。本当はラベルなんていらないんです。

仏教の場合も、阿弥陀さん、お釈迦様、大日如来など、複数の如来様が登場しますが、本当はいらないのかもしれません。ただ方便として、さまざまな如来様を中心にしたいろいろな物語がある。信者たちはそれらの物語を自分の信仰のよりどころとしていますが、それはあくまで、理解しやすいように作り上げられた「よりどころ」でしかない。「じゃあ、何を本当のよりどころとすべきなのか」というと、仏教的に、それは「自己」です。その「自己」とは何かというと、「あなた」に対しての「私」ではなく、いってみれば出会うものすべてとしての「私」。「You and me」では割り切れない「universal self」。「そもそも私がここにいなければ世界はない」という考え方です。ちょっと神秘的な話かもしれませんが、でも、どういうわけか今ここに天地いっぱいの私がいる。私の世界の中に、このネルケ無方と稲垣隆司というラベルがついた2つの存在があるんだけれども、それ以前に、天地いっぱいの「私」というもうひとつの存在がある。これこそ、宗教的な気づきです。

生まれてきたときは、恐らくみんなその感覚の中で生きていると思うんですね。つまり「出会うものすべてが私」。ところが2~3歳になると、実はお母さんと自分は、違う、別々の存在であることに気づく。「ぼく」という一人称の言葉を使うことによって、こちら側を指し、「お母さん」は向こう側の登場人物になってしまう。続いて、妹や弟が生まれれば、これまで主役だった自分は世界の中心ではなくなる。急に、お母さんは妹や弟のことばかりを可愛がって、「おかあちゃん、おかあちゃん」と叫んでも、「あなたはもう、お兄ちゃんでしょう」と言われる。それは誰にとっても、大きなショックですね。「私は世界の中心ではなかった。私は世界のすべてではない」と感じます。ところが、誰でも自分という映画の主人公でありたい。

たとえば、今ここお腹が空いている自分がいるとしましょう。そのとき、世界の中心では、自分が「お腹が空いている」のであって、たとえ妹が同じように空腹であっても、それは自分にはわからない。お母さんに「お腹が空いた」と訴えたら、「今、妹にお乳をあげてるでしょう!」と言われた。しかし、そう言われても、自分だってお腹が空いている。この自分の感覚だけを追っていると、利己主義者になる。だから、幼いころから「自分だけじゃないんだ」という気持ちをもつよう叩き込まれるのですが、それでもやっぱり「自分が1番」という気持ちも出る。そこで、それ以降はゲームをやっていくんです。お母さんから1番に愛されたい。妹と自分、お兄さんと自分では、どちらが優先されているかを比較したい。学校に入学した後は、クラス20人のうちで自分は上から何番目かが気にかかる。成長して思春期になると、今度は異性にモテたい。モテるためにはどうしたらいいか。髪型を変えてみたりファッションにこだわってみたり、自分の価値を上げようとする。さらに、就職して仕事を始めると、今度はどうやって出世するかというゲームになります。まさに1番になりたい「ゲーム」の連続なのです。
第13話:「universal self」としての「私」こそ、宗教としての気づき
【後編へ続く】


取材協力:ネルケ無方(ねるけむほう)さん
1968年ドイツ生まれ。1993年、安泰寺八代目の堂頭である宮浦信雄老師の弟子となり、修行。1995年からは京都の東福寺と小浜の発心寺でもそれぞれ1年間掛搭。1997年、安泰寺に帰山。33歳のとき、独立した禅道場を開くために下山し、大阪城公園で「流転会」と称してホームレス雲水生活を開始。6ヵ月後、師匠の訃報を聞き、山に戻る。現在は大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っており、2011年の『迷える者の禅修行』をはじめ、多くの著書を刊行している。

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