『放射線治療部長・放射線治療医急募〈緊急募集〉』
地方独立行政法人神奈川県立病院機構のホームページに、大きくこのように掲載されてあった。(現在は削除)

神奈川県立がんセンターの医師が複数、一斉に退職するという報道があり、いわゆる「集団退職」としても話題になっている。県立病院という大きな組織であることに加え、医師という職業が職業なだけに注目を集め、大きなニュースになっているが、こうした集団退職あるいは連続退職といった現象は、その他の企業でも時折みられる現象である。決して対岸の火事ではない。このようなケースが後を絶たないのはなぜなのだろうか。
こんな上司はいやだ?人が離れる職場のリーダー像

社労士として現場に接している者の見解としては、これは、退職理由を検証するときに、組織側にある誤解や誤謬があるのではないかという気がしている。

実際によく耳にするのは次のようなコメントである。
「これは組織的な問題だ」
「構造的な改革が必要だ」
確かにその通りだと思うが、退職者の方の話を聞くとその正反対ともいえる意見が出てくることがある。具体的には、退職者の口から「○○社長が」「○○部長が」といった具合に固有名詞が出る。そしてそれはほぼ100%同一人物を指している。つまり、組織的問題もさることながら、個人的な問題であることを強く意識せざるを得ないのである。

ここで閑話休題。世の中は今、「応仁の乱」ブームであるらしい。私自身も関連書籍を読んですっかりハマってしまった一人であるのだが、そこで、応仁の乱の時代にも部下に大量に逃げられた人物がいることを知った。古市胤栄(以下、胤栄)という武将で、乱の最中に30人の一族・家臣に逃げられている。いわば集団退職された上司の大先輩とも言える人物で、現代の労務管理の参考として興味深いものがある。なぜ、胤栄は部下に逃げられてしまったのか、史実から見えてくる理由を次の通り3つほど挙げてみる。

(1)空気を読まなかった
胤栄は風流人として知られていて、当時“日本初の有料ダンスホール”なる施設を興行して大成功させている。風呂や茶などの文化事業にも熱心だったという。世が世なら、文化人として称えられたかもしれないが、時代は応仁の乱真っ最中であった。娯楽に興じる胤栄を周囲や部下がどのように見ていたかは、想像に難くない。

(2)寛容さが足りなかった
胤栄の部下が仕事で大失敗をしてしまった際、怒った胤栄はそのうちの2名を斬首してしまう。それが前述の30人の逃亡事件につながることになった。その後、周囲がその仲をとりもとうとするのだが、胤栄は耳を貸さず、言上してきた30人を勘当する。重い懲戒処分を下した後にさらに解雇を宣言するようなものである。この事件、最終的には和解をしたようであるが、主君としての信頼や支持が大きく損なわれたに違いない。

(3)経験不足だった
胤栄は家督を継ぐ際、ひどく苦労した。父親の死後、臨時でトップを務めていた前任者がなかなかバトンを譲らなかったためであった。結局、争いの末にようやく実権を握ることに成功するのだが、程なく時代は応仁の乱に突入する。戦乱の難局を乗り切るには、新米リーダーである胤栄はあまりにも経験不足で、家中をまとめるのは困難であったと考えられている。現代においても職長教育の重要性は周知の通りであり、未熟なリーダーは、組織もその人自身も、不幸にしてしまう先例かもしれない。

(3)については組織的な問題と言えるが、(1)(2)は個人的な色合いが強い。特徴として周囲が見えていないことが挙げられる。かく言う私自身も25歳で飲食店の店長を経験したが、当時は訳が分からないまま着任したので随分と苦労した。自分のああしたい、こうしたいという意向ばかりが前面に出て、周囲の仲間に引かれていたような気がする。事態が好転したのは、“相手の気持ちを考える”ことに気づいてからだった。

良品計画元会長の松井忠三さんも、次のように綴られている。この言葉に大切なヒントがあるように思うので、最後にここに紹介したい。

『良品計画の役員や社長になって、当時(店舗勤務時代)のことを思い出したことがある。自分の地位や立場を笠に着て部下に指示を出す社員がいたが、関係はぎくしゃくしていた。まずは現場の話を聞く。現場の本音を聞き出してから方針を伝えるとうまくいった。』


出岡社会保険労務士事務所
社会保険労務士 出岡 健太郎


参考文献:
呉座勇一「応仁の乱」、中央公論社、2016
松井忠三「私の履歴書」、日本経済新聞記事、2018.2.15

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