江戸っ子・榎本武揚
第30回(最終回) 榎本武揚(えのもと たけあき)
堂上たちには腹がない
鍋島さまにはしまりがない
参議の者にはいくぢがない
そこでなんにもしまらない
今度のご処置はたわいない
官軍朝敵差別ない
死んだ者には口がない
攘夷々々ととめどない
開港してもしまりない
大蔵省には金がない
弾正無茶には仕様がない
することなすことわけがない 
所々の恋女はつまらない
盗人年中たえがない
世上安堵の暇がない
そこで万民命がない
とんと日本もおさまらない
「ないない節」~くだり酔墨
明治2年ごろ獄中で歌い、晩年に酒に酔って文字にした。
戊辰戦争最後の決戦場、函館五稜郭で、旧幕府軍を率い戦った総裁榎本武揚である。

彼は、江戸っ子の特徴そのものの人物であった。彼をよく知る人間は「友達としては最高だが、仕事仲間としては困る人」と評している。
正直で義理堅く、個への執着心に乏しい。野暮なことは大嫌いで、情に厚い。知人の孫を預かって学校に通わせたり、困っている人がいれば気軽に金を貸したりと、とにかく江戸っ子であった。

27歳でオランダに渡り、軍楽、法学、化学、さらには当時発明されたばかりの電信技術も学んだ。
が、帰国した彼を待っていたのは、滅亡に瀕した幕府であった。鳥羽伏見の戦いで幕府軍の権威は地に落ち、德川慶喜は、恭順の意を示し蟄居している。
それらの措置は勝海舟らの必死の努力と官軍の譲歩によるものであったが、榎本は受け入れ難かった。
結果彼は、開陽を中心とした艦隊を奪い、松平太郎らと共に品川から脱走、奥羽越列藩同盟を結ぼうとするもかなわず、蝦夷地に向かう。
五稜郭に立て籠もる榎本に対し、官軍は降伏を勧めるが、あろうことか彼は蝦夷の地に独立国家を設けさせよ、と逆に条件を突きつけるのである。幕府による統治が終わり新たな統治府ができあがろうとしている最中、国設立を目指すというは、壮大と言うべきか、のんきと表現すべきか。
当然官軍はのむはずもなく、ここが最期と榎本は覚悟する。しかしオランダ留学で得た書籍を失うのは日本国家の損失であると考え、将来日本の海軍発展のために利用してほしい、と官軍に寄贈する。
その心と書に書き込まれた詳細な記録に官軍は感謝し、五稜郭に酒を届けたといわれている。

深い愛国心と人情の人

また榎本は、弾薬兵糧が尽きる中、前途ある年少の者に、帰順して命を全うするよう命じた。しかし命ぜられた者たちは残って戦うことを選んだ。
覚悟した彼らは、それぞれが辞世の句を作る。彼らの中の一人、大塚某が自ら歌った辞世の句を今一度見直そうと、二階に上がると、そこにはとんでもない光景があった。
榎本が坐し南の方角を伏して拝んでいるのである。その脇には将軍から賜った脇差が一振り。不安を感じた大塚が様子を窺っていたところ榎本は、腹を広げるや、脇差を自らの肚につきたてようとした。大塚は両手で刃の部分を握りとめるしかない。手が切れ、鮮血を流しながら大塚が大声を出し階下の者たちを呼びつける。駆け付けた者たちに榎本は、「私が今死のうとするのは、これまで私の軍令の下に多くの命を奪ったからである。今日は衆に代わって死ぬべき時だ」と言い、脇差を離さない。皆で榎本の指を開いて、ようやくとどめることができた。
榎本は、国家のために若い人財も残さなければならないと考えた。
立場が賊軍であろうがなんであろうが、彼の愛国心には一点の曇りもなかった。
これらの行為を生み出す行動理論が、結果榎本の命を救い、その後の彼に対する沙汰も方向づけることになる。
彼の中には、「己の命は国家のためのものである(観)。故に命を賭して事を為すことは(因)永年の国家安泰につながるに違いない(果)。己のための己の命を遣うな(心得モデル)」という信念があった。
それが、個への執着のない、江戸っ子榎本武揚の人生を創り上げた。

「夏木金八」という変名を用いていた。「榎」、「釜」(通称が釜次郎)を分解したものである。己を示す名前への執着も少ない。洒落者であった。
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