米沢藩第9代藩主。幼名、松三郎、諱は治憲。
困窮した藩の財政を再建し、かのケネディ大統領が最も尊敬する日本人政治家と評した、偉大な改革者、上杉鷹山である。

「為せば成る
為さねば成らぬ何事も
成らぬは人の為さぬなりけり」


この言葉を生み出した鷹山が生きた時代、財政難は幕府および諸藩に共通する大問題であり、その多くが立て直し切れないままであったのは事実である。が、「財政再建」という点で成功例が他にないわけではない。にもかかわらず、なぜ今なお、上杉鷹山がフォーカスされるのか?
彼の改革を通して、行動理論を考えて見たい。

米沢という藩

  杉家は秀吉によって会津百二十万石と佐渡金山を与えられていたが、関が原の戦いで勝利した家康により米沢三十万石に減封される。財源が4分の1になったにも関わらず、対面を重んじる歴史ある上杉家は、百二十万石規模の家臣団をそのまま抱え続けるという愚行を続ける。のみならず跡継ぎをめぐる混乱から十五万石にまで削られ、藩の財政はますます困窮する。

 そんな中、鷹山が藩主となるのである。彼は、
「民の父母たるを第一とする
 学問・武術を怠らない
質素・倹約を旨とする
賞罰は正しく行う」

という誓詞を奉納し、大倹約を行って米沢藩を復興することを誓う。

財政改革~大倹約令

  鷹山は、12か条からなる大倹約令を発令。鷹山自身が進んで倹約の範たる行動を実践し、江戸での1年の生活費をそれまでの7分の1とした。

 1771年には、「御領地高並御続道一円御元払帳」を作成し、一年間の米沢藩の収入、支出、借金などを詳しく記載、財政の全体を明らかにすることで、人々の協力と理解を得やすい状況を整える。
大倹約令は単に経費が出ることを抑えることのみを狙ったものではない。鷹山は学問などに惜しみなく投資した。「学問は国を治めるための根元」であるとの信念のもと、城下に藩校「興譲館」を創設し有能な家臣の子弟から20名を無料で入館させるなどの施策を実施した。

 彼の「倹約」は、単なる経済的な効果をねらうものではなかった。欲に流されず、物を大切にし、感謝の念を醸成し人を育てる、という倫理の革新を狙うものであった。
結果、単なる財政の立て直しを超える、「良質な社会」を創り出すことに成功するのである。

産業の再構築と精神の改革

  鷹山は、米沢藩の特産品開発にも力を注いだ。
財政基盤の安定には、農業生産を増やすことが第一と考え、藩士に対しても田畑の開墾や治水工事などを実施させるのである。藩士の次男・三男は農村に移り住み、田畑を開墾することを勧めたほどだ。
 これも、単に「生産力の強化」ではなく、立場の違いを超え、皆が協働し新たな社会を創り出すことにまい進するという文化を、藩に生み出したのである。

 鷹山は古いしきたりを壊すことをためらわなかった。
 藩士が作成した改革案を伝えるため、鷹山は重役のみならず平侍までを含めた全藩士を一同に集める指示を出した。これに対し、「前例にないことである」と家老が引き留めたが、「例にないことをするのが改革の第一歩である」と受け流した。
 従来ならば声を掛けない下級家臣にも自ら声を掛けるなど、多くの人々の意見を聞くことを非常に大切にし、藩士・農民・町人いずれも「上書箱」を通じて意見を投じることができた。

「良質な社会」の実現

  これらの地道な努力により、米沢藩は現在の経済社会の範となるほど「良質な社会」となった。
 「良質な社会」とは、経済(産業・財政など)と倫理(学問・教育・文化など)が両立された社会である。鷹山は、米沢藩の再建において、財政改革、産業再構築を通じた精神の改革により、250年前の日本に「良質な社会」を実現させた。
 これこそが、今なお、いや、今だからこそ上杉鷹山が注目される最大のポイントではないか。

 鷹山が持つ行動理論は二つある。一つは「倫理と経済を両立させてこそ(因)、真の繁栄が実現できる(果)。なぜならば経済活動とは他者への貢献そのものだからである(観)。故に「常にその両立の手を打つことを第一とせよ(心得モデル)」、もう一つは「前例・知識にとらわれるな(心得モデル)。なぜならば人の世(社会)は変化こそが常だからである(観)。故に新たな実践のみが(因)、社会の存続を実現する(果)」というものであろう。

鷹山を創った者たち

  鷹山の小姓に佐藤文四郎なる者がいた。佐藤は鷹山に対し歯に衣着せるところがなかった。ある時鷹山が「蚊帳が邪魔で暗くて本が読めない。本を読む間、蚊帳を外し扇子で蚊を追い払ってくれぬか」と命じたところ、佐藤は足軽の長屋へ鷹山を引き連れた。そこでは顔中に蚊をまとわりつかせながらも必死に学問や労働に従事する姿があった。佐藤は「私はあなたの周りの蚊を追い払うために扶持をいただいているのではない」と言い放ったという。
 またある日、貢献を称えるための模範的農民名簿に目を通すことを失念した鷹山に対し佐藤は、「あなたは結局書物の中で学んでいて、現実の世界で政治を行っていない」と厳しく諌めたという。

 このように鷹山に影響を与えた人物は多々あるが、細井平洲はその一等であろう。細井は「高遠の説は急務ではない。ひたすら聖賢の道を現実に実践するところに学問の意味がある」と常に説いていた。いわゆる「実学思想」である。
 これらから学び先の行動理論が信念化され、冒頭の「為せば成る
為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」という言葉を発せさせたのであろう。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候
  国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候


 鷹山が次期藩主に残した伝国の辞である。
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