何十年も、言葉の読み方を間違えていることがある。ある会社の顧問がしきりに「ダンコンゾクがどうした」とか「ダンコンゾクにとって問題は~~」と言う。意味が分からなかったが、それは、団塊の世代のことで、団塊族と言っていたのだった。もと社長だった彼は、70歳近くなるまで、その誤読に気づかないでいたのである。
ここまで極端な間違いではなくとも、たとえば相殺(そうさい)を「そうさつ」と信じ込んでいて、堂々と使っていたりするようなことはある。たいていは、こちらの年齢を慮って相手も間違っていますよ、とは指摘できないから、いつまでも気が付かない。あるとき知ったときの恥ずかしさといったら筆舌に尽くしがたい。

相殺を間違えるように、直截(ちょくせつ)を「ちょくさい」と読んだり、早急(さっきゅう)を「そうきゅう」と読んだり、この手の間違えやすい言葉はきわめて多い。ややこしいのは、辞書にさえ、誤読と明記されずに慣用読みと書かれていたりするから、自身の間違いもそれでいいのかも、と思ってしまう。

誤読ではないが、その言葉自体が間違っているものとして、独壇場という言葉がある。これはもともと、独擅場(どくせんじょう)で、「ひとりほしいままにする」という意味でうまれた言葉だ。それが、擅と字面が似ている壇が間違って使われ、「ひとり壇上でふるまう」と意味もそれっぽいので間違いに気づかれない。

このことを知ったのは、高校の現代文の授業であった。しかし、すぐに辞書を見てみると、独壇場がしっかりと載っている。さっそく、してやったりとそのことを先生に指摘すると、「辞書が間違っている。辞書は信用するな」と言い放った。そして、そもそもの言葉のなりたち、本義こそを知ることの重要性を力説したのだった。

この高校は、6年一貫の受験校であったが、現代文の教師に限らず、どの教師も、本質理解のスタンスが共通していた。数学の教師は、「公式は一切覚えるな、必要なときに公式が作れればいい」といった。古文の教師は、「古語なんてどうでもいい」と言い、その時代の生活をとにかくリアルにわからせようとした。英語の教師は、徹底して語源にさかのぼることで、単語の意味を推理できるように腐心した。と同時に文法の意味に言及し、発音なんて二の次だった。

受験を通過しうるような学力とは、暗記力ではなく、どんな問題にでも応用できるような柔軟な力でなければならない。そのためには、そもそもの本質やなりたちを理解し、常にそこから発想し、推論できなければならないということである。この事情は、仕事をするうえでも同じだろう。分業された一つの小さな仕事であっても、その「そもそも」を考えて対峙できなければ、単なる作業に成り下がってしまう。そもそも論から考えるから、工夫や改善や革新がうまれ、また本人の成長につながる。

各社の仕事の現場には各様の、固有の言葉がある。言葉自体は同じでも、意味や歴史やなりたちは、それぞれに異なる。そこにはもちろん誤読があってはならないし、なにより誤解があったら組織としてうまく回らないだろう。自社の言葉は、全社員が、そもそも論で理解していなければならない。理念浸透やバリュー行動の喚起は大事なことだけれども、それ以前にまずは、自社用語を題材とした“受験勉強としての現代文授業”が必要なのかもしれない。
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