政事をなす謀略家

 濃厚な指宿煙草を好み、朝用と夜用のパイプを使い分けていたといわれる愛煙家。写真好きで、白い木造洋館に住み、帰宅した彼を迎える子供たちを眺める時が無常の喜びという、子煩悩でやさしい父親であった。普段は公務で忙しく、家族と過ごす時間などほとんど取れなかった彼は、毎週土曜日になると、妹たちも呼んで夕食会を催していたそうである。
武芸に見るところは無かったが、その頭脳と行動力で維新をなし、近代日本政治の礎を作り上げた彼は、明治十一(一八七八)年五月十四日朝、東京紀尾井坂から赤坂御門に至る閑静な路上でその最期を迎える。
 旧加賀藩士六名の刺客に襲われた大久保は、刺客を制して書類を風呂敷に包み、自ら車のドアを開ける。路上に降りて一喝を残し、前後から凶刃を受けて倒れた。享年四十九歳。
 「稀代の政治家」大久保利通の行動理論を考えてみたい。

「謀略」の経緯

彼の政事の始まりは、藩の記録所書役助であるが、お由羅騒動で父と共に謹慎処分となり、大久保家の生活は困窮を極める。現存するこのころの手紙は、借金の依頼が多い。

 一八五三年五月に島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれて復職し、御蔵役となるも、一八五八年斉彬の死去により、その政策がことごとく中止されていく。
 お家の騒動に翻弄されたこの時期が、その後の行動を決定付けていくことになる。
 その経験から「己が大志を実現するには(果)、権力者に取り入るしかない(因)」ことがわかっている大久保は、島津久光に接近する。その人となりを情報収集し、その趣味である碁を学び、自分の政治的思想などが伝えるべく画策する。久光が捜す平田篤胤の『古史伝』を入手し貸し出す際には、本の中に同志の名前や思想を書き入れた紙を差し込んだ。
 かいあって、一八六一年一一月、大久保は久光から任命され、藩政の中軸に躍り出ることになる。
 一八六二年、藩の過激派が久光上洛を討幕運動の端緒にすべく画策していることを知った大久保は、当時公武合体論であったため、過激派に顔の利く西郷の登用を図る。
 必死で過激派を抑える西郷に対し久光は、西郷が過激派を扇動していると邪推、その怒り収まらず西郷に厳罰を科する。西郷が過激派へ走る事を恐れた大久保は、ここで大芝居を打つ。服罪するつもりが無いならば今ここで共に死のうと申し出るのである。かつて斉彬への旬死を図り、生き残ったことを天命ととらえていた西郷は、「われわれはここで犬死にしてはならない。甘んじて処罰を受ける」と言った。
 薩英戦争後の講和交渉で江戸に赴いた大久保は、支払うべき賠償金を財政難に苦しむ幕府から借りるつもりでいた。貸付を拒否する老中板倉に対し、「ならばイギリス人を斬って腹を斬る」と脅し、屈する幕府から七万両を借り受けた。
 イギリスは、大久保の行動力や交渉能力を認め、以降薩摩藩との関係強化に向かうことになるのである。
 その策略と行動は政略的である。

謀略指針の転換点

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