今はなきセゾングループは、当初、西武流通グループといった。その総帥・堤清二さんは、ビジネス雑誌を編集していた頃の私の“ターゲット”だった。

その雑誌は、広義のファッションビジネスを扱っていたから、百貨店を含む小売業全般も対象だった。当時、池袋西武が巨大百貨店として誕生していて、“東急村”だった渋谷も、西武百貨店とパルコにより様相を変えていた。
百貨店のなかに美術館、パルコには劇場も構え、さらに、量販店、書店、外食産業、カード会社、高級リゾート開発、ホテルといった一気呵成なさまざまな業態開発には、鬼気迫るものがあった。気になって自然と、西武流通グループを取材し記事を書く機会が増えていった。

何より、このすさまじい事業展開を率いる、詩人であり経営者である堤清二とは、どんな人なのかが知りたかった。何度もインタビューを申し込んでも応じてくれない。そこで別のアプローチで堤さんを掲載することにした。

それは、写真を撮って載せるという方法である。その雑誌は、ファッション写真も掲載するので、ビジュアライズされた紙面がウリだったので、西武グループのイベントに絡めて堤さんの写真を撮って大きく載せる。例えば、有楽町西武のオープニングでは、店の前に立つ堤さんをナメてその外観を撮った写真を表紙に大きく掲載したりした。

あるいは、さまざまな経営者や文化人が集まるパーティに潜入しては、誰かと握手させたり、ツーショットにしたりして撮影する。ベテランのカメラマンを連れて、追まわし、行く先々で撮影する、といったことばかりやっていた。きっと五月蠅いやつと思われていただろうけど、いつもジェントルに写真に納まってくれていた。

並行して、周辺の方々への取材をしていくと、会議での激烈な振る舞いなどを聞き、うかがい知れない顔があることを知った。さらにつてをたどって、若いころの堤さんをよく知る人物に会うことができて、記事にはしなかったけれども、堤清二さんの人となりとその形成の道筋の一部をイメージすることができた。

ちょうどその人物に会った直後、またカメラマンを連れて、池袋西武の店内を視察する堤さんを追っかけていたときのことだ。と、こちらに気づいた堤さんは、一直線に近づいてきて、私の前に立った。きつい眼でにらみつけると、「いいかげんにしてくれませんかッ!」と一喝して、去って行ったのだった。

やりすぎたな、と反省したけれども、私のいた会社にクレームを言うわけでもない、この直接のひと言は、すこし嬉しかった。そしてこれが、私が堤清二さんと交わした唯一の会話である。

編集稼業の足を洗い、企業の人材マネジメントのサポートをする会社に転職して、5日目に一本の電話がかかってきた。名の知れた業界紙からで、会ったこともないその人物は「○○社(=セゾングループの一社)の社長が別荘を建てた件について、△△△△を××××したことをご存知ですよね?」と言った。

堤さんを追い回しながら、込み入ったところまで立ち入った取材をしてはグループの記事を書いていた私は、すっかり“西武ウォッチャー”として、一部で知られていたようだった。でも私は、文字通りの“堤ウォッチャー”にすぎなかったのだけれども。
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