1582年、全ての武具を赤一色に染め上げた一群が戦場を駆け抜けた。意図は二つ、かつて武田の将であった者の意志を継ぐこと、そしてもう一つは戦の最中、自分の配下を一目で掌握するためであった。
赤一色の集団は、初陣で10倍の兵力を有する敵方を翻弄し、これ以降幕末までその軍は赤備えであった。
第26回 井伊直政

赤備えの人

井伊直政、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、武将であると同時に、優れた政治家・外交官でもあり、家康の天下取りを支えた功臣である。

「たちそふる千代の緑の色ふかき 松の齢を君もへぬべし」と詠んでいる。和歌の才もあったらしい直政は美男であった。「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」との記録もある。

虎松の行動理論

幼名は虎松。今川氏からその命をも狙われた虎松は出家、浄土寺、さらに三河国の鳳来寺に入る。
「社会」と「人」の幸せのために貢献する人を育てることを第一とした場で彼は、「命とは、太平の世のためのものである(観)。その役割を最大限に発揮することで(因)命は初めて意味を持つ(果)。使命を全うせよ(心得モデル)」という行動理論の土台を整えることとなる。

1575年、虎松は家康にその才を認められ、井伊氏に復することを許される。
虎松は武田氏との戦いで数々の戦功を立てる。1582年本能寺の変で家康の伊賀越えに従い帰還した際には、その名を直政と称していた。

毛利家重臣の小早川隆景は「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり」と評し、鍋島勝茂からは「天下無双、英雄勇士、百世の鑑とすべき武夫なり」と賛辞を呈されている。

直政の使命

のちの話であるが、直政の大政所に対する手厚い警護に喜んだ秀吉が、自ら立てた茶でもてなされた場に石川数正がいた。徳川を裏切った数正に対し、「先祖より仕えた主君に背いて殿下に従う臆病者と同席すること、固くお断り申す」と言ったという。
そこには「自分の命は、家康のためにある(観)。家康こそ太平の世をもたらす唯一の存在である(観)。自分の命を家康のために使うことで(因)初めて自分の命はこの世に意味を持つ(果)」という信念が横たわっている。この信念が直政を突き動かす。

家康が武田氏の旧領である信濃・甲斐を治める際、直政は士大将となり、ここから徳川重臣の一翼を担うことになる。
直政は徳川家中の中では外様である。しかしながら徳川家臣随一の12万石を与えられていた。10万石以上を与えられた者は、本多忠勝、榊原康政のみであることから考えても、三河以来の譜代家臣から多くの嫉妬、反発があったことは想像に難くない。
事実、家康がまだ若い直政に栗毛の名馬を与えたことがある。家臣の一人が直政を前にして、家康の行いを「見る目なき行為」と批判した。大身になったのち直政はこの者に対し、「人を見る目がなかったのはあなたの方であった。家康さまの目を疑うとは失礼千万である」と言い放ったという。

「井伊の赤鬼」と称された直政は、家康を守り支えるその姿勢と実績で、嫉妬や反発を退けていった。信念の強さとそこから磨かれた才の凄さがうかがえる。

1600年家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。この戦において直政は負傷する。
しかしながら、様々な政略的工作を行い、多くの大名を西軍から取り込むことに成功するのである。
西軍総大将、毛利輝元との講和交渉役、徳川氏と島津氏の和平交渉の仲立ち、真田家次男・信繁の助命など、戦の後始末とのちの江戸幕府の基礎固めに尽力した。これらもすべて、家康をもって太平の世を創るためである。
天下を泰平する上で西国の抑えを重要視した家康が、戦略上要所となるであろう彦根に井伊家を配したのは、当然ともいえる。

直政は一途で激しい信念を持って家康を支え、太平の世を目指した。
そして同様のことを家臣にも強要した直政は、「人斬り兵部」とも呼ばれた。家臣に気安く声を掛けることも殆どないばかりか、家臣の不忠は一切許さず、手討ちにすることも少なくなかったためであるという。井伊家の家臣の中には直政による厳しい軍律に耐えられなくなり、本多忠勝の下に去る者達も多かったという。
しかし城下の民衆から慕われていた。
彼の中では、民は救うべき対象であり、家臣はそのための自分自身の現身であったのであろう。

慶長7年2月1日、死去。
今なお滋賀県彦根市ではその功績から「井伊直政公顕彰式」が行われている。
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