彼は生涯57度の戦に挑み、一度たりとも傷を負わなかった。
武田軍の将から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と称賛されたという。
通称平八郎、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑のすべてに数えられる本多忠勝である。
第25回 本田忠勝

すべてに称えられた戦人

配下の将達は「忠勝の指揮の下で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」と称え、織田信長が自らの家臣に「花も実も兼ね備えた武将である」と伝えたともいわれる。
戦であるが故、勝ち負けは常であるものの、忠勝の特筆すべき点はその勝負強さではなく、周囲の信を得る武将としての人柄であろう。忠勝が一度もかすり傷さえ負ったことがないというのは、その兵たちが、忠勝を死に物狂いで守った証である。

戦人の初陣

1548年、安祥松平家の最古参譜代、本多忠高の長男として生まれた。
幼い頃から徳川家康に仕え、十三歳で桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。
後の戦で「この首を取って戦功にしろ」と与えられるも忠勝は、「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」と言って自ら敵陣に駆け入り敵の首を挙げる。十四歳の時である。

忠勝の一筋

今川義元の死ののち、家康は織田信長と清洲同盟を結ぶ。忠勝は上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどに参戦する。
1563年三河一向一揆では本多一族の多くが敵となる中、家康側に残り武功を挙げる。十九歳の忠勝は与力54騎を与えられる。
以後、忠勝は常に家康居城の城下に住み、旗本部隊の将としてあり続け、家康を守り続けることとなる。

愛槍は「蜻蛉切(とんぼきり)」。刃長43.8cmの笹穂型の大身槍だ。その名は穂先に止まった蜻蛉が二つになったという逸話に由来する。槍といえば4.5mの柄が使われるのが常であったが、蜻蛉切は6mもあり、「天下三名槍」の一つに数えられている。

彼は一向宗であった。「一向」とは「一筋」という意味であり、「一つのことに専念すること」を表している。
その忠勝は三河一向一揆において、改宗している。なぜならば忠勝が信じた「一筋」は「家康を天下人とすることが(因)、世の泰平につながる(果)。なぜならば家康こそが唯一それができる人物だからである(観)。家康を立てよ(心得モデル)」という信念であったからだ。

1570年、姉川の戦いでは家康本陣に迫る朝倉軍1万に対し単騎駆けを敢行、無謀である。しかしこの時、必死に忠勝を救おうとする家康軍が動く。結果これが反撃となり、朝倉軍を討ち崩すことになる。
忠勝は「一筋」に家康を救おうとした。その「一筋」が彼自身をも救うことになるのである。
1572年、一言坂の戦いでは偵察隊として先行、武田本軍と遭遇し撤退しようとするが、武田軍から猛烈な追撃を受ける。忠勝は殿軍を努め、不利な地形の中、奮迅の戦いぶりを示し、家康本隊を見事に逃がしきる。
忠勝は鹿角の兜に黒糸威の鎧という備えであった。

「一筋」を貫いた戦(いくさ)ぶり

1575年の長篠の戦いや、1580年の高天神城奪還戦にも参戦している。これらの戦で忠勝は家康から「まことに我が家の良将なり」と賞される。
「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という句が残されている。
1582年、本能寺の変が起きる。家康は忠勝を含む少数の者とともに堺にいた。
この時家康は取り乱した。「京都に向かい信長の後を追おう」というのである。
「家康を天下人とすることが太平の世を創る」ということを「一筋」に信じていた忠勝は、家康を諌め、「伊賀越え」を行わせる。
1584年春、小牧・長久手の戦いでは、16万の大軍を誇る豊臣方の前に、徳川軍は苦戦。
忠勝はわずか500騎の兵を率いて豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらには単騎で川に乗り入れ馬の口を洗わせる姿を見せる。この振舞いに豊臣軍は進撃できなかったという。
忠勝は家康と和睦した秀吉に「秀吉の恩と家康の恩、どちらが貴殿にとっては重いか」と問われる。「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えたという。
忠勝は秀吉から東国一の勇士と賞賛された。

1601年、伊勢国桑名藩を任された忠勝は、藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、東海道宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれている。猛将のイメージが強い忠勝だが、政治的な手腕も並ではなかったようである。家康から任された藩を収めることは、彼の「一筋」の内であった。

「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という」という言葉を遺している。遺書であり、辞世の句ではない。
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