私の事務所名“クロノス”はギリシャ語の“時”を意味する。
時についてギリシャ人は計りうる時をクロノス、計ることを超え、質・量となる時をカイロスと、時を二通りにとらえる。
生まれてくる時を知り得ず、死ぬ時も知り得ぬ、今、生きているいのちの居場所が時である。時は自分の手で触れられるものでもなく、自由にもならない。あるとしたら、それは胸に手をあて感じる心臓の鼓動であったり、呼吸だろうか。宇宙のリズムの吐き出すエネルギーで生を受け、再び宇宙のエネルギーに吸引されるように帰っていく。人は生まれる時には息をはき、死ぬ時は息を吸って最後とする。
時と運、この自由にならないもの。残業代ゼロ問題に思う

 時計はその自由にはならぬ時を、人間が定義することで世界共通基準を可能とした道具である。時計の時刻の刻みの細かさが増すごとに、私達のいのちの居場所も窮屈になったような気がするが。

 生活レベルでは忙しい、暇だ、などと軽く言いがちだが、“いのち”という視点で見つめると、“時”は俄かにその重みを持つ。

 仕事をするその場、その時、その相手、ことに“志”により質・量へと次元を変える可能性ある“時”でありたいという含みから、事務所の名前とした。

 手塚治虫の“走れ!クロノス”は、わけありの馬と少年の友情をマンガで描いたものだ。計測できる時がやがて計測できない永遠の次元に至ることが何なのかをテーマにしている。作中で、馬の名前クロノスの由来を、家族の名前の頭文字からとったことにしているところは作者のセンスとユーモアだ。難しい内容をやさしく、面白く語ること、さすが手塚治虫である。

 質的・量的時間、カイロスの次元に至るキーワードは“人のために”である。

 さて、自分の自由にはならないと思われているもう一つが“運”である。その“時”どのような気持ちでいるかにより、自分の運・不運を決めていく。使う言葉によっても決めていく。出生の環境以外は自分が決めている。
 例えば、やれやれ終わりだ、と思って仕事を終わった時はよい状態とは言えない。もうちょっとやってみようかな、と仕事をする。場合によってはいくらでもやりたい。それを少しでも、続ける。目標を決めて。

 ほんのちょっとしたことなのだが、積もり積もってその人の運命を変えていく。

 通勤電車の混雑、道路の渋滞、イライラの湯気が上がっている状態の中を不快そうな顔で歩いたり、危険な車線変更を繰り返し少しでも先を急ぐか、人より早く起き、清々とした環境で通勤するのかなどなど、小さな行動、でも大きな運のチョイスに満ちた中で暮らしている。運だめしをするのは、宝くじではないのだ。

原則、運・不運は自分が選択している。 

 残業代ゼロ問題に絡めて、あらためて時とは何か、運とは何かを考察した。実務レベルでは残業云々の前に、仕事の中身、残業の中身等時間の棚卸を行い、現状把握と分析を要する。

 以前にも増して、個として時をやりくりできる人間か否か、リーダーとして部下の“時”をやりくりしていけるか、その能力が大きく問われる流れにある。

 サッカーも戦う時間は決まっている。残業はない。あるのはロスタイムである。私達の人生の最後には残業はないし、ロスタイムもない。死んだら終了である。時を成果に結び付けるか否か、質・量の次元となり、変らぬ“時”となっていくかは“志”にある。


オフィス クロノス 人材育成コンサルタント 社会保険労務士 久保 照子

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